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最終更新:2007/01/26

■受賞について

県名高校名演目
最優秀賞 栃木 栃木高校 塩原町長選挙
優秀賞
(全国フェスティバルへ)
新潟 三条東 例えばジャニスのソウルフルナンバー
優秀賞
創作脚本賞
栃木 作新学院高校 ナユタ
優秀賞 群馬 新島学園高校 桜井家の掟

結構意外な審査結果でした。最優秀賞もあるかと思っていた筑坂の選漏れ、一緒に観ていた人と共に首をかしげた三条東の入賞、入賞はしないだろうと思っていた新島の入賞(個人的にはあの出来では入賞して欲しくなかったです)。最優秀賞だろうと思われていたナユタ(作新)に代わり、最優秀賞は難しいかなーと思われていた、栃高の最優秀賞など。

今回の審査基準の推測は簡単、観て面白かったものです。舞台や照明などを含めた演劇技術や総合力で考えれば、筑坂、作新、栃木、前橋南、新島あたりだと思うのですが、筑坂については感想で述べたとおりで、前橋南については講評で「脚本で80%決まる」と述べられていた意味、そのままでしょう。栃高については、装置なし、照明的演出もほぼなし、BGMも普通。唯一飛び抜けたテーマに関連する演出(演技)の驚異的な完成度、そして何より本の面白さということなのでしょう。

■全体的に感じたこと

●演劇のリアルと本物のリアリティ

深谷第一高校演劇部の感想で触れたことですが、本物リアリティを安易に使うと演劇として嘘になってしまうことが往々にしてあります。口を酸っぱくして、ホンモノを研究しろと言っている人間がこんなことを言うと袋叩きに合いそうですが、これにはきちんと理由があるのです。

例をあげましょう。映画やドラマなどで、たまに、地方のお店の店員などに「役者を本物のお客に見立てて、接客してもらうシーンを使う」ということがあります(最近では「UDON」という映画がそうです)。作品によって様々なので一概には言えませんが、多くの場合このときの接客を見て「素人っぽいなぁ」と感じるはずです。しかしよく考えてみてください、これ以上ないリアルな演技どころか本物なのに「素人っぽい」のです。なんかおかしいと思いませんか?

つまり演技のリアリティーと本物のリアリティーは少し違うということです。演劇の中で、台詞ではなく、本当にリアルに力を全く入れないで普段の雑談すると(「昨日何かあった?」とか)劇から浮いてしまうことがあります。よくイメージできなかったら、普段の雑談から「疲れたー」「えっそれ本当?」とかのそういう単語を取り出して演劇のシーンの会話に合わせて音としてはめ込んだ場合を想像してください。変でしょう? 演劇の場合は、ややオーバーに演じるぐらいの方がリアルに見えますし、最低限会場の後ろまで聞こえる発声をしなくてはなりません。よく感想に「もっとオーバーでいい」と書きますが、それも結局は同じところに起因しています。

演劇というのは「演劇」という観客と上演者の約束事(一般に「文法」と言います)の上に成り立っています(例えば光の外は存在しない空間というのも約束事です)。演劇はほとんど現実(本物)に近い表現方法だと言うことができますが、だからと言って本物が常に演劇のリアルであるとは限りません。無理問答みたいですが、本物ではなく「本物に限りなく近い嘘(演技)」が必要なのです。それそのものではなく、ものすごく「それっぽいもの」が必要なのてす。

とはいえ、ほとんどの学校はこんな話なんかすっかり忘れて、本物を研究して追求してください。それで全く問題はないはずです。話の掛け合いの間、心の動き、そこには絶対的な本物が必要なのですから。

※補足。だからといって、すなわち今回の深谷第一の演技・演出が絶対にマズいというとにはなりません。演出意図との兼ね合いにもなりますが、本当に力の抜けた雑談から話を紡ぐというやり方も別にありですし、それはそれで演劇として成立します(講評の言葉を借りれば「演劇は何からも束縛されず自由である」になるでしょう)。ただしその場合は、役者もスタッフもみんなが同じライン(同じ約束事)のリアルを作る必要があり、しかもそれを観客に理解してもらえるよう配慮する必要があります。高校生にはなかなか高いハードルでしょう。

南の感想に書いたゆるみの話もよかったらどうぞ。

●まとめ

新潟の関東大会は施設(りゅーとぴあ)職員の方が一生懸命動いているという感じの大会運営でしたが、個人的には「高校生が(各県代表の)高校生を迎える」という感じの方が好きですね。南はまだそんな感じがありましたが、あらためて去年の埼玉大会の「運営のすごさ」を感じてしまいました。来年の群馬は大丈夫でしょうか?(苦笑)

さすがに観てから約3週間経っていることもあり、感想や特に講評を忘れかけていて大変でした。今回の講評はいつもにも増して元の意図から間違えてると思って読んでください。講評は南部から呼ばれた二人の先生が、丁寧にアドバイスしていてとてもよかったです。あとオーハシヨースケさんの独特の個性が凄かった。関係ないけど、一体どんな演技をする方なんだろうという感じです。

まあこれでしばらく(サイトも)お休みですね(地区公演とかはあるけど)。やっと終わったというような、しばらく見れなくて寂しいという感じもするような。さすがに2大会も書くもんじゃないなと思いました。うるさい奴かも知れませんが、今後とも生温かく見て頂ければ幸いです(苦笑)

■徒然

●高校演劇コンクールの内包する問題点と考察

ネットを見ていたら、ふとこんな記事が目にとまりました。

「勝手に劇評させとくれ」より引用(文字強調はこちらで追加)
予定調和すぎたとはいえ、『ナユタ』の完成度が評価されなかったことに、高校演劇コンクールの難しさを感じたしだい。
<中略>
審査員の評価は隙のない顧問の頑張りが見え隠れする芝居ではなく、むしろ隙があっても、高校生らしさ(<括弧内省略>)が重んじられたとき、顧問自らの精進努力がむしろ逆効果に働く、そんな憂いを感じた心持ちがしたのも事実であった。
<中略>
作新の費やした時間や労力、情熱を想像するに、恐らく大垣先生のショックは計り知れない気がしたりもするのだ。もし、この方向で審査がなされたのであれば、どうして筑波大学附属坂戸高校の『濃縮還元』は入賞できなかったのかということになる。高校生の創り出したあの発想とエネルギーはしかるべき評価を得るべきだと思った。審査に一貫性を求めるのは無理だと思うが、何を追究して芝居づくりをすべきなのか、戸惑っている自分がいる。

高校演劇コンクールにはある問題点が常に内在しています。それは誰しも知っている「芸術を評価する」という矛盾です。上演者とお客という関係だけであればいい作品を評価してしまう。しかしまあ、そんなのは世間に出れば当たり前なことなので、さして取るに足らないことでしょう。

むしろ評価(審査)基準を示せないということがコンクールの問題なのかなとも思います。技術力を50点満点、面白さを50点満点、それらを合計する……とか、さらに細かく「音響○点」「物語○点」「役者○点」とかなってたら誰もが安心できる評価基準にはなると思います。これらは客観的に評価しやすくある程度経験を持った人ならブレることはありません。クレームが付くこともほとんどないでしょう(現在そんな野暮なことをする学校があるのか知りませんが)。さてこれで安心安全な評価基準ができました。みんなここを目標に頑張ってください。そうですね、これからこの基準をみんな広めましょう。

……というわけには行かないのです。その配点のどこに合理的な意味かあるのでしょうか? と問われたとき、誰一人として納得のいく回答をすることはできません。例えば最初の「技術力50点、面白さ50点」にしても、面白さが50点をはるかに突き抜けてしまうような作品もみんな50点なのでしょうか? 美術的に驚異的な美しさと凝りを出し50点をはるかに突き抜けるような芝居も技術力50点なのでしょうか? そして最大の問題は、「技術力50点、面白さ50点」合わせて100点を狙って作られた芝居が(結果100点を取ったとしても)果たして本当に面白いのかということです。

「審査基準が存在した時点でそれはもう(自由な)演劇ではない」

こんなこと突き詰めて行っても正解なんてないんですが。南関東大会の富士高校みたいに誰の目にも明らかなものは落ちませんしね。個人的にはやっぱり「(主題が)いかに観客に伝わったか」が最も評価されるべきポイントなんじゃないかと思います。技術がなくても伝わるものは伝わるし、技術があっても伝わらないものは伝わらない。表現であるところの演劇は、結局のところ伝えるところにその本来の意味があるわけですから。伝わらざる表現に意味はない。

技術や完成度なんていうのは伝えるための道具にすぎないわけです。無論、完成度や技術に問題ありすぎると伝わる以前に舞台に飽きてしまいますが、観客が見て舞台装置がないことを「許容出来る」と感じれば許容出来る舞台なんじゃないでしょうか、演技力不足も全く同様に。

そういう意味で今年の審査は、だいたい妥当だったんじゃないかと思います(南関東も含め=1日目の上演作については見てないので不明ですが)。