桐生南高校「べいべー」

作:青山 一也(顧問創作)
演出:(表記なし)

あらすじ・概要

新生児室に揃った4人の赤ちゃん。一人は天然ボケ、一人は不良、一人は性同一性障害、一人は気難しい。この4人が大人に内緒でドタバタを繰り広げて。

主観的感想

脚本以外

脚本以外を先に述べます。開幕して父と母が「私たちの赤ちゃん」がどうのと言うのですが何を言っているかよく分かりません。声が聞き取れません。そもそもシーンとして必要ないと思います。完全に省略して直後の台詞から始まっても通じます。

生後数日の赤ちゃんなのに大人のように動き回り、そしておしゃべりをするという一幕もののコメディです。動きで魅せるということ、性格付けをきちんとするということ。この2つにきちんと気配りをして演じられていました。動きにほとんど隙がありませんでした。そして何より演じてる当人(役者)たちが心底楽しんで演じていたのがよくよく表れていました。

BGMの処理、アタックだけ大きめに聞かせ戻したりきちんとしていました。ただ、若干下げるのが早かったので人によってはトチったと勘違いしたかもしれません。そこだけちょっと注意です。細かいところですが医者とナースが「僕の胸に飛び込んでおいで」というシーンで一時的に大きくして盛り上げてもよかったと思います(これはコメディの典型的な音の使い方です)。

基本的にコメディなのですが、笑いに対する間の取り方や相づち(合いの手)が非常によく出来ていて、そんな細かいところまで本に書かれていたのかどうかは定かではありませんが、アレンジして演じていたのなら大したものだと思います。昔に比べて本当に力を付けてきたと思います。

「これは入賞もあるな」と思いました。結果的には入賞しなかったんですが、してもおかしくはなかったと思います。というのも、全体として非常によく台本を理解して演じており、よく審査基準となる台本の要請を満たしたかという点において、台本の求める(以上の?)完全な笑いの取り方をしていました。本当に素晴らしかったのです。

これだけ読むと大絶賛ですね。上演をみながらいつも気付いたことをメモに取るのですが、メモには上のような内容しか書かれていません。ただ一行を除いては。その一行は「30分が限界かな……」です。

脚本について

今回の上演をみて素直に感じたことは、ただ一言「台本の限界」です。青山先生の書かれる台本は好きですしコメディとして秀逸なのはいつも感服するところです。ただただ今回ばかりは残念なことに、コメディとして完成度が高まれば高まるほど中身がすっからかんになってしまいました。終盤40分ぐらいになると多少シリアスなシーンが入って、一人の両親のやや複雑な家庭環境が出されるのですが、それをラストに向けて解決しているのかと思いきや10分ぐらいで話を収束させ、違うところでオチて物語が終わります。「あれ?」と思いました。

30分が限界と書いたとおり、永遠とコメディをされても30分で飽きてきます。普通そこまでで物語の主軸に対する伏線を張っておくのがこの手の演劇の典型です。実際にこの本でも伏線が貼られていますが、後にならないとそれが伏線とわからない(伏線がわからないのは良いことなのですが、分からなすぎる)ために観客の印象としてはコメディしか残りません。

作者の青山先生のブログを読むところによれば、

『べいべー』には「大人への皮肉」が数多く含まれています。要するに、子供から大人へあかんべえをしているお芝居なんです。

なのだそうですが、であるならばそれら重要な台詞を笑いの「間」の中に書いてはダメです。いや書いてもいいのですが、笑いの「間」に書く限り笑いとしてしか伝わりません。笑いの「間」に書いて成立するものに唯一「ブラックジョーク」がありますが、ブラックという通りもっと「真っ黒」じゃないとまるで成り立ちません。

仮にこれらの皮肉が成立していたとしてどう変わっていたかと考えると、大分印象が変化しますがそれはそれでひとつの問題があります。あまりに多くのことを皮肉として使いすぎたために、話として収集が付かなくなってしまうのです。物を書くとき、ましてたった60分の本であるなら、最終的に話の軸を1点に絞り込む必要があります。4人の赤ちゃん(べいべー)のそれぞれを描くという手法には時間が足りず、主役をきちんと決め、軸を決め、そこに向けて削ぎ落とす(取捨選択する)作業がどうしても必要になります。

大分偉そうな発言になってしまいますが、桐生南の上演はいつも多かれ少なかれ「オチを取って付けた感」がします。コメディで始まり、そのうちにうっすらオチが見えてきて、最後はそのオチのゴールに向けて走るという印象です。ひとつだけ要望するなら、オチが決まったなら今度はオチから最初に向けて、後ろから前へ読んで修正(アレンジ)してほしいのです。オチに対して相応しくなかったら捨てる覚悟をしてから。それで随分違うのではないでしょうか。

全体的に

やっぱり今年も演出不在です(表記がないという意味ではなく居ないという意味)。笑わせること(能動)に対する追求、間、掛け合いは秀逸でしたが、それ以外はどうだったのかというとやっぱり弱かった。

大切なのは「観客に対して何を表現すればよいのか」ということ。演劇は残念ながらお笑い番組ではありません。もう今なら理解できると思いますが、演劇は「表現」なのです。表現とは「表したいもの」があって、それを観客と「共感」したいから生まれるのです。面白いものをみせて(観客に与えて)「笑わせる」のと、観客を引き込んで面白い気分にさせて(笑いたい気分にさせて)「笑いが起こる」のは天と地ほど違います。笑わせるのではなくて、楽しませる結果として笑いが起こる。

例えば友人と会話をしていて、突然変な顔をすれば笑うかもしれませんし、笑わないかもしれません。同じように会話をしていて、最近あった面白い出来事を話すとき、あなたはどんな風に話しますか? きっと「ああなって、こうなって、そしてこうやったら」と話すと思うのです。聞いているほうは、話に聞いた情景を想像して、あなたの話を想像の中で追体験して、そして笑います。話しているあなたと一緒になって笑います。「笑います」は「泣きます」でも「怒ります」でも何でも構いません。

演劇の本質は、観客との共感(シンパシー)にあります。表現全部の本質が共感にあると言っても過言ではありません。自分たちのことがまかなえる実力を持った今、次のステップとして観客をどうやって引き込むか考えてみてください。自分たちは一体何を表現したいのか、それを観客に伝える(観てもらう)ためにどうしたらいいのか。例え朝イチの上演になっても眠い目を閉じさせないためにはどうしたらいいのか。寒くて寒くて観てるのが辛い会場だったとしても自分たちの劇に集中してもらうにはどうしたらいいのか。「この台本を使って(文字通り利用するのです)何を表現するのか」そういう部分をすべてのスタッフと役者一人一人がもっともっと丁寧に考えてみてください。

新島学園高校「りょうせいの話」

作:大嶋 昭彦
演出:新島学園演劇部
※最優秀賞(全国大会)、創作脚本賞

あらすじ・概要

たった3人しかいない、今の時代向きではなくなった寮とそこに暮らす寮生と寮母。やってくるOB。そんな人たちの織りなす、寮でも一幕を描いた物語。

主観的感想

脚本について

顧問創作。演劇部が練習場として使っている閉鎖された寮とそこにかける想いによって作られた本とのことです。ここのところ、全国で使われたの既成本が多かった新島が創作台本で勝負してきました。内容はというと非常に秀逸です。

話は、来年閉鎖する寮で1人残って寮から出て行くことになる主人公ケンジが、あこがれの先輩にメールで告白をといったありがちなものです。しかし、それを支える登場人物とそこにやってくる元寮生の小杉、先輩二人の寮生、そして三十路近くにもなりながら寮母をしてしまっている、ある意味で「寮」に取り憑かれてしまっているそんな人たちの織りなす物語になっています。

とにもかくにも、寮という場所に対する想いをこれでもかと詰め込んだ本です。

脚本以外

幕があがって、寮の食堂が見えます。左手に壁があり手前に電子ピアノ。切れ間(勝手に繋がる通路)があって正面にも壁。左から絵が2枚飾られ、レンジが置かれ、中央の黒板の上に時計。右手にドア、カベ、そしてちょっと古びたソファー。舞台中央にテーブルが二組。こじんまりとした寮の一室を、黄色味のあるライト(電球色)で着色した、みただけで引き込まれてしまうようなセットです。講評でも述べられていましたが、雑然とさせることもなくセットに物が置かれ、寮の一室という狭くもなく広くもない空間を見せ、それでいて2組の机、ソファー、電子ピアノといった小道具を劇中で効率的に使い人物を配置しています。録画テープをもらってでも、何がどうなってるのか研究してみる価値はあります。

そして演技にも隙がまったくありません。よくある劇団(とか小劇場)の現代劇と同じクオリティ(むしろその辺より上手いです)。例えば、最初におばあさん(外部のお客)がケンジを連れて入ってきて、寮生と寮母さんがやや緊張して、おばあさんが居なくなると「はぁー」っと肩をおろして緊張がゆるむ。外部の人間と内部の人間という区別をその体の動きだけで表現仕切っています。動きに全く隙がなく、一人一人がきちんとその劇中で動いています。

見事としかいいようがないのですが、いくつか気になったところ。まず講評で指摘されてなかったのが不思議だったのですが、すべての台詞が早口です。現状でも成り立つのですが、あと少しだけ「間」を取って話した方が良いです。動きやその他の演技・演出のクオリティに対し、台詞の「間」だけが負けています。原因は明らかで、台本の詰め込みすぎです。60分の上演時間に対して、やや台詞が多すぎます(無論間を取るためには少し削るしかありません)。そのために、演技のメリハリもいまいちの面があり、台詞に対する強弱が少なくなっています(無いのではない)。特に、小杉と寮母はもっと「大人の間」で台詞をしゃべならないと不自然であって、本来オーバーでゆっくりに話すべき台詞(例えば「えっ、何のために学校行ってるの?」とか)があまり生きていませんでした。

もう一つ気になったのはシリアスシーンが(全体のクオリティに対して)やや甘ということです。この辺は講評で指摘されていた「ケンジの恋心やその背景があまり見えてこない」ことも関連してくると思います。言ってしまえば、この恋話は寮という主題を盛り上げるための小道具に過ぎないわけですが、小道具だからっておざなりにしていい理由にはなりません。このお話に深みを持たせるエピソードや台詞を足すのは無茶ですが、演じ手の動き・動作を突き詰めるだけでそれを表現することは十分に可能なはずです。コウタとケンジの対立というこのお話唯一のシリアスシーンを軽く流すことなく、見せ場であることを意識して、もっともっと登場人物の気持ちを突き詰めることは必要でしょう。

全体的に

今まで観てきた新島の演劇の中では一番の、全国に行っても恥ずかしくない演劇です。関東という試練がないのは残念な気もしますが、あっても多分突破していただろうと思います。

新島自体の演劇のレベルは去年・一昨年と大きく変わっているか言われれば、進歩しているものの(元が高かっただけに)そこまで大きく変わってはいないと思うのです。ですが、今年はテーマを理解して演じていたことが大きかった。きちんと「寮という場所が主役なのだ」ということが、役者もスタッフもみんな意識していたことがきちんと伝わり、それこそが例年との違いなのだと思います。例年の新島の最大の失敗は「テーマに対する理解不足」でしたから(話の舞台が普段慣れ親しんだところであるといことも大きいのでしょう)。

観客を見事に舞台に引き込んで一体となっていました。寮への愛情の勝利ですね。

大泉高校「総合的な学習」

作:江原 慎太郎(顧問創作)
演出:(表記なし)

あらすじ・概要

総合的な学習の発表練習。さやはお葬式のマナーについての発表練習を友人達と一緒に行っていたのだけど……。

主観的感想

ぱっと幕が開いて、左手にお葬式のマナーという垂れ幕。その右に発表用の台(ミニ教卓)。中央に花に囲まれた台、右側にはパイプ椅子で生徒たちが並びます。役者がそのまま本名で登場するという当て書きされた台本です。どうやら、シーンごとに順番に積み上げていった感じです。最後にさやが自殺しようとして、それを止めて終わるのですが、全体的にぱっとしません。新島のあとだけに、その差は余計に大きく映りますね。

台詞が早口でキンキンして何を言っているのかよくわかりません。みんなテンションを上げちゃったので抜けができてないと思います。「止め」や「間」はよく研究して積極的に使っていましたが、メリハリは使えていませんでした。強弱やメリハリをうまく使うようにするとうんと良くなります。遺書の朗読や死にたいする考え方、捉え方、気持ちの動きの無理など色々と気になるところはあるのですが、ひとつだけ大切なことを書いておきます。

話を聞いていない生徒たちという様子が非常によく出来ていました。ワイワイギャーギャーのリアルな女子高生がよく表現されています。そこが一番の問題でした。リアルすぎて劇になっていなかった。講評で「もし自分の高校の制服を使っていたのなら、それは絶対変えた方がいい」という指摘がありましたが、それもおそらく同じことを言っています。当て書きであまりに素で作ってしまったために、劇になってない。演じていない。制服もいつもの制服、おしゃべりもいつものおしゃべり、ただ場所が舞台の上になっただけ。普段の雑談を観客にみせたところで面白いとは思ってもらえない。普段の高校生活をビデオにとって垂れ流しても誰も楽しんでもらえない。

とても伝えるのが難しいのですが、まず演じることからはじめてください。観客のために演じてください。ありのままの自分たち見てもらいたい気持ちは痛いほどよく分かります。けれども、今のままでは観客はあなたたちのことを見てはくれないのてす。

お昼休み。みんなで食べる昼食。自分のこと、今日あったこと、昨日見たテレビ、昨晩届いたメール。友人と雑談をするとき、あなたは友人の方を向いて話すはずです。あんまり興味のなさそうな目をしていてたら話を切り上げるかもしれないし、興味津々で「それでそれで」と返してきたらテンションをあげて話すと思うのです。今度は、観客の方を向いて演技をしてください(舞台上で実際に客席を向けと言っているのではないですよ)。どうしたら観客の方を向いて演技ができるかよくよく考えてみてください。そうすると観客もあなたたちを見てくれるようになります

伊勢崎清明高校「幻私痛」

作:小野里 康則(顧問創作)
演出:佐藤 杏子

あらすじ・概要

がれきの山で目覚めた女。人は誰も居ない。震災でもあったのだろうか……人を探して数日、やっと男を見つけるのだった。

主観的感想

脚本について

顧問の創作脚本です。地震(震災)後というイメージを直接的に表現せず、状況を説明するには遠い台詞から徐々に震災ということを説明するあたりきちんと基礎を押さえた台詞回しがされていました。

話は「ガレキのイメージ」とそこを彷徨う男と女、そして「自分たちは存在するのか」という実在への疑問から街の見る夢にまでたどり着く悲痛な話です。おそらく戦争か都市がひとつ消えてしまうような大災害をイメージして作られています。

しかしそれにしては台詞回しが軽妙であって、命あるモノが存在しないという背筋が凍るような状況がなかなか描き切れていません。必ずしも本のせいとは言えない面はありますが、情景をあまりに無視した台詞回しでシニカル(皮肉)にすらなっていないところに大きな問題があります。この作品(主題)は大枠としての「滅亡感」や「破滅感」があって、そこに唯一の「生」(希望)である男女が描かれてこそ成り立つものであり、大枠としての悲壮感を描くことなく登場人物の「生」にばかり着目しすぎた面は否めません。

例えば、最初から男女を登場させ、男を悲壮的な考えの持ち主(「暗」)、女を明るい未来的な考えの持ち主(「明」)と設定した上で、対話させつつ、街という状況から対話の材料を与えるという話作りならば、まったく違って見えたと思います。1つ1つのエピソードも適当に繋げたという疑問が拭えません。

「どうしたら(話の大前提である)破滅を描けるか」(伝えられるか)を台詞回しからも、エピソードからも、もっと丁寧に突き詰めてほしいと感じました。

脚本以外

台詞もそうですが、演技にも悲壮感がまるでありません。世界観である「破滅した世界」に居たらどういう気持ちになるかという思考が不足しています。役者が理解した気持ちしか観客には伝わらないのですから、その点は残念でした。また台詞が多く、対話の間が悪くなっています(「間」が無い。間を作るための時間的余裕がないぐらい台詞が多い)。気持ちの理解が不足しているため「命あるものの音が、一切消えてしまったのよ」といった台詞がどこか浮いて聞こえます。全体的に台本に台詞を言わされているように聞こえてしまいます

男はガレキの下から救い出されるとお腹に金属の棒が刺さっていました。しばらくしてから劇中の登場人物達が気付くのですが、観客は助けられた瞬間から気付いているため、理解にタイムラグが起きます。何か狙ったものならまだしも、コメディとしても成立していなので微妙な感じになってしまいました。

あれこれ言ってしまいましたが、装置のガレキ感はよくつくってあったと思いますし、役者もとても頑張って(精一杯)演じていました。その一生懸命さが気持ちのいい劇でした。少人数で大変だと思いますが、役者とスタッフが両方一緒になって「本読み(気持ちの理解)」にもっと力を入れるとうんと良くなると思います。

前橋育英高校「じゃがいもカレー」

作:前橋育英高等学校演劇部(創作)
演出:小野関 祐

あらすじ・概要

おじいさんの本棚で見つけた日記帳。そこに書かれていた衝撃の事実、戦中に友人を殺してしまったおじいさん。その友人はおばあさんの(かつての)婚約者だった。

主観的感想

脚本について

「合宿をしながら知恵を絞り合って作り上げました」とのことです。あらすじのとおり、その日記からおじいさんが家出をして戦中の回想になります。結婚60周年記念のパーティーでおばあさんにそのことがバレてしまうのですが、実はおばあさんは知っていたという心温まる「いい話」です。

ややシーン転換が多いことが気になります。一番の問題は回想を使わずに表現して欲しかったということです。度々言っているとおり、演劇ではシーン転換は余り向きません。うまく処理しないと転換中に進行が完全に止まってしまうからです。TVドラマは逆にシーン転換しないと(リアリティがないので)間が持ちません。本作中で回想によって観客に伝えられる『真実』というのは、実のところ観客にとってはどうでもいいこと(知らなくてもいい興味のないこと)です。観客が知りたいのは、そこに居る人物たちの気持ちの動きとその交流です。

小説でも一緒ですが事実は事実として淡々と表現するよりも、「昨日食べた料理美味しかったよね」「そうそう中に入ってた野菜があんなに美味しいなんて」という風に登場人物達の主観で描かれた方がよっぽど興味が沸きます。友人を殺したときの真実を淡々と説明されるよりも、そのときの状況を知る者を出して(日記に書かれていたのを読んだ人で充分でしょう)、おじいさんと対話しないといけません

確定的に「いけません」と書いたのにはもう一つ理由があります。このお話は結果的におばあさんが「許す」ことで幕を閉じるのですが、おじいさんはその段階においても「過去の事実に向き合っていません」。向き合うのが怖くて逃げているのです。怖くて逃げていたら知らないうちに許されてしまった「ああラッキー」では、観客は共感しませんし、感動もしません。このお話がきちんと成立するためには、おじいさんは最低限「過去に向き合う」必要があります。おじいさんどころか、物語の作者がそこから逃げていては観客の気持ちを動かすことはできません。厳しいようですが実際問題、物語を紡ぐということは自分の身を削るような辛い作業なのです。そして、その作業無くして共感は得られません。

脚本以外

全体に演技にしまりがありません。メリハリがないというか、抜けきっているというか、表現が難しいのですが、とにかくしまりがありません。シーンが断片的で投げっぱなしです。これもしまりがない一因です。台本を舞台の上で読んでいますが演じてはいません。どう言ったら伝わるでしょうか。

エチュードというものがあって、そういう練習をするといいと思います。例えば2~3人で「先生と生徒」とかそういう簡単な状況を即興で演じます。3~5分ぐらいです。他の人はそれを見ています。即興劇が終わったら、観ていた人にどうしたらもっとリアルに見えるか発言してもらいます(議論になればなお良いです)。それを色々な設定や組み合わせで行います。言葉であれやこれやと説明するよりも、それが一番良いです。別に今回の劇台本1シーンで構いませんが、台本に知恵を出し合ったように、演技でもみんなで知恵を出し合ってみてください。すぐに上手くなります。

戦争という比較的重たい題材を選び、しかもそれをきちんと劇として成立させていました。その情熱はすばらしいものがあります。