桐生高校「未定」

作:キリ平
演出:遠藤 有希子

あらすじ・概要

無茶苦茶を行う大学当局に対抗する学生たちの物語。学園祭の実行委員を依頼されたが大学批判や政治などに関する出し物はすべて禁止された。学生運動をモチーフとした、学生と大学の戦いを描いています。

主観的感想

脚本について

幕が開いて最初に「反対ー、反対ー」というシュプレヒコールから始まり、「何について反対なのか」と思ったあとに「授業料値上げ反対」といった台詞が出されるあたり、遠くの情景から近くの情景へという台詞回しがよく出来ていました。

メインの舞台は大学付近の喫茶店。装置もよくできていてムードがあります。話のメインはこの喫茶店です。もう1つ「大学側」として黒服みたいな男が出てきて「○○は禁止とする」と言ったり「大学当局へ反抗するものはみんな排除する」といった具体化された『敵』のシーン(スポット)があります。その他、登場人物がゲームオタクというフリがあり、それを説明するために回想シーンがあったりします。そういうの以外は全部喫茶店で話が動きます。

はっきり言って喫茶店以外のシーンはすべて不要(邪魔)です(最初のシュプレヒコールは除く)。それらのシーンはほぼすべて状況を説明するために置かれているのですが、そういうものは登場人物達の会話から状況が推測できる程度の情報を出せば済む話です。本を書く人が陥りやすいのですが、物語の状況を詳細に決めることは大切です。しかしそれを直接的に説明することは全く余計なことです。前口上的なものは要りません。このような背景状況は、物語の展開に必要最低限の部分だけ登場人物達の会話に滲ませるとムードが沸き、少し謎めいた背景世界に対して観客の想像力が掻きたてられます。観客を作品世界に引きつけることになります。

演劇では場面転換に時間がかかります。自分たちの上演を録画したビデオがあれば確認してみるといいのですが、作者のあなたが想像したように、綺麗にA/B2つのシーンを挟んで画面切り替えが出来ていますか? 最初に脚本を書いたときの想像通りスムーズに転換ができていますか?

あともう1つ。このお話では結局「敵」を倒していません。基本構成は勧善懲悪(正義が悪を倒す)にも関わらず悪を倒しません。では悪に負けたかというとそうではありません。話を「敵」と「私たち」という形で転がしながらその部分に明確な決着を付けずに終わります。今の、主人公が未来へ向かっていくというラストが悪いというのではありません。それはとても良いのです。けれども同時に「敵」と「私たち」の間に決着を付ける、または決着に向けた未来への標(しるべ)をみせてくれないと、観ている方としてはフラストレーションが溜まってしまいます。

会話の処理やシーン作りがよく研究されうまく書かれているだけに、そういう部分が本当に勿体ないなと思いました。

脚本以外

カウンターのある喫茶店、テーブルが2組。ドアは存在しないのに、ベルをならすことであたかもあるように見える。一生懸命苦心して作り上げた「喫茶店」というリアリティがよく出ていました。椅子がやや嘘っぽかったですが、それは別として限られた中での努力と熱意がとてもよく伝わってきます。登場人物を色づけ(性格付け)して、人物たちが会話をするという見せ方もきちんとしたものでした。基本的なことはきちんとクリアしてきています。

しかしながら、完璧かと問われるとそうでもなく。本のアラの方が目立ってしまい講評もほとんどそこに終始していましたが、もうひとつ登場人物に実在感がありません。ひとつひとつの台詞をきちんと言うことに注力していたのですが、その先の「その人物の思考、普段の生活」という部分までは見えてこない。

実力はあるのですから、もう一段階ステップアップ。台詞をきちんとこなそうという部分の先に、役者自身による「この人物はこういう性格の持ち主」という理解があり、それを観客に向かってどう表現しようというと考えると人物のリアリティがぐんと増します。台詞上の性格付け以上のもの、例えば必死さや一生懸命さ大雑把さに投げやりなところが表現できるようになると、あたかもそこにその人物が居るように見えてきます。

地区公演を含め、本当にいつも一生懸命作ってきて上演しているのですが、今一歩というところで勿体なく感じました。