安中高校「カレー屋の女」

作:佃 典彦
潤色:原沢 毅一(顧問)
演出:西川 由美

※最優秀賞(関東大会へ)

主観的感想

脚本はよく知られているようです。なぜか女性しか居ない離島に迷い込んだ、森本という男の話を描いた作品。 良い意味で高校演劇っぽくなく劇団の劇みたいでした。 まず登場人物が大人であって、高校生が演じているため若干の無理はあるものの、それでも迫力は十分。 こう、力強さのようなものが感じられました。 大人数が舞台の上で動く楽しみもあり、話が展開する横で皆で覗き見するなど印象深い。 イヤなオバさんを、ここまで高校生が演じられるものなのかとも感じました。

ただ、全体に完成度が高めだったせいか、逆に細かい点が気になりました。 死体を埋めるシーンで、シャベルで土を盛る動作がよく出来ていたのに対し、 バケツで土をかぶせる動きが軽そうであったり、 埋めかた、コップで台所の蛇口から水を注ぐ動き、カレーをよそり食べる仕草などが 適当であったりといった感じです。 また、若干森本の演技が弱かったように思われます。 あの状況に対して、やや冷静すぎ、楽観的すぎに思いました。 最終的にも、その主人公の心理が見えなかったためにオチの解釈が難しい。 この本(脚本)は人によって「汚いものと毛嫌い」しかねないものですが、 演劇らしいとも言えます。 とにかく圧倒されました。

審査員の講評(の主観的抜粋)

  • 大人向けの台本であって、なぜ高校演劇にこの本を選んだのかは若干疑問が残る。
  • (オチと関連して)森本という存在が島の人々にとってどんな存在だったのか、 また全体としてどういうお話なのか(オチなのか)がいまいち不透明、説明不足。
  • 島の人々が、どうしてこのような無惨なことをしなければならなかったのか。 なぜそれほどまでに追い込まれてしまったのか。そういう人間心理をもっと描いて欲しかった。

大泉高校「14歳の国」

脚本:宮澤 章夫
演出:大泉高校演劇部

主観的感想

本自体は結構有名な作品らしい。どうも少年事件などを受けて作られたようで、 全国各地の学校演劇でも使われドラマ化もされた模様。 劇の最初と最後で、凝ったムービーをパソコン&プロジェクターで流したのですか、 そのムービーに本編(劇)が負けてしまったように感じます。

誰もいない教室で始まる、教師5人による持ち物検査。 狙いとしては、そこから矛盾や少年(14歳)について見つめなおそう、 14歳が分からない大人を描き出そうというものらしいのですが、 観た感想としては「なんだか分からない」。役者、演出に大いに不足ありでしょうか。 音響ひとつとっても安易なBGM選択が見られ、 よく知られた曲は「その曲のイメージが強すぎるので注意が必要」であることを気にしてない様子。 舞台上の机も数が多すぎて役者が演じにくそうでした。

演出意図として、この演劇は一体何を描き出したかったのか、 どこを主題として捉え、どの点を浮き彫りにしたかったのかちょっと伝わってきませんでした。 局所的な演技も重要であるけれども、一番大切なのは「どこを全体として描き出すか」であって、 その最も重要な点が抜けてしまっているのが残念。 と思ってスタッフクレジットをみると演出責任者不在のようで……。 物語性があまりなく、断片的な会話とイメージで綴られる比較的難しい台本であるようですが、 それを料理仕切れなかったのかなという印象を持ちました。

審査員の講評(の主観的抜粋)

  • 間の強弱をつけないと、全体的に淡々としてしまう。劇全体が特に変化なくのっぺりと語られている。
  • 教室に対して廊下の位置関係が逆では? 黒板(が存在する位置)を通り抜けて人物が行き来するのは問題あり。
  • 先生が音楽室に居るという意味で、遠くからピアノの音が聞こえるシーンが何度かあるが、 CDか何かのピアノをそのまま流しているので「遠くから音がしている」「ピアノを弾いている」という印象が持てなかった。
  • 次から次に机の物を物色したり何かを見つけているが、 そのとき観客の間というものを考えて欲しかった。 あれやこれやとコロコロと切り替わっていくために、考えが追いつかない。

関東学園大学附属高校「On」

脚本:中村 真悠子
演出:関学演劇部

脚本について

はりこのトラの穴にて公開されていた、 高校生(?)の執筆脚本のようです。現在はこの脚本は公開されていません。

主観的感想

テニス部存続の危機!  二人劇独特のムードを持ちつつも、内容はネタ盛りだくさんというか、 ユーモア盛りだくさんというか、とにかく笑いましょうというもの。 最後には「上演時間ちょうど何々分何秒、ぴったし!」なんて騒ぎ初めて、もうほとんど何でもあり(笑)  ここまでやりたい放題やられると逆に気持ちいいぐらいです。

一言で表すなら「不真面目に大まじめで取り組んだ劇」で、 本来は学校の体育館とかで(学校)内輪ネタをちりばめて行うための脚本っぽいです。 こんな演劇1校ぐらいあってもいいよね、という印象なんだけども、 結局それだけなんだよなーってのは演じた方も分かっているのでしょう。 まあでも、さすがに1時間が限界でしょうか、お腹一杯。 結局、この作品は笑えるか笑えないかですから、笑えればいいんじゃないかと。 ただ、あれだけ演じられるなら、今度は別の作品を選んでやってほしいですね。

審査員の講評(の主観的抜粋)

  • ずっとこんなペースで、最後どう締めるのかなぁと思ったら、お客さんにラストを押しつけて終わった。 時間が来たから終わりなの、まだまだ出来るけどしょうがないでしょ、みたいな終わり方。
  • やっぱり演劇なのだから、舞台の上の虚構に観客を引き込んで欲しい。

共愛学園高校「クレタ島の謎の謎」

脚本:中村 勉
演出:川合 和子

劇の概要

まずダンスに始まって、次に3名が出てメタシアターについて説明を始める。 メタシアター、劇中に関する演劇、演劇とは何であるかを 演劇によって考えていくための演劇。 それについて説明している姿も、はたして演劇なのか?  それとも劇に入る前の説明なのか?

演劇部を舞台に、先輩・後輩の間で演劇についてのやりとりと、 演劇関係の内輪ネタ、分かりやすいところで言えば 「どうせ(コンクールの)優劣なんて審査員の好みだよ」 みたいなものが多数出てくる。 演劇関係者しか笑えないネタに少々疑問を覚えながら、 そんなやりとりが約半分続く。 その後、「エチュードやります」と宣言し、 繰り返しエチュードを上演する。

主観的感想

全体的にテーマとの脈絡が感じられず、 本当に演劇の姿を追求する気があるのかな?  と疑問を感じて迎えたラスト近く、 テーマ付近の内容に触れて終わる。 出演者3人は本当によく(素晴らしく)演じられているにも関わらず、 メタシアターとしては少々軽すぎる印象。

劇中に「クレタ人のパラドックス」という台詞があります。 この言葉は「すべてのクレタ人は嘘つきだ」とクレタ人が言った。 このクレタ人は嘘つきか? 正直者か? という問いです。 類似のものとしては「この文章は間違っている」、 さてこの文章は正しいか、正しくないか? というものがあります。 この手の問題をパラドックス(逆説)と言います。 演劇というのは、現実を描いた虚構だし、 虚構なのに舞台の上で実際に起こっている現実です。 このパラドックスを、クレタ人のパラドックスに引っかけて 『演劇』の姿に迫るのが本来の狙いかなと感じました。

余談ですが、矛盾を追求し、 矛盾が抱える問題を分析することで真の姿が見えてくるというのは、 1900年代始め頃、数学(や哲学)の世界でよくやられた手法で、 クレタ人のパラドックスもこの文脈で出てきます。 背理法というのものをご存じでしょうか?  矛盾を導き出す事で、ある事実を証明する方法。 数学の世界で「どんな集合よりも大きな集合が存在する」って証明が 丁度この背理法を用いており、 矛盾によって更に大きな世界の存在を示しています。 そして、この証明法をほんのちょっと変えるだけでパラドックスが得られます。

完全な私情ですが、これを演劇に類推して 「演劇の中から、外の世界(現実)」を描けたならば、と残念に思います。 テーマに対する理解・説明がやや不足した印象を受けてました。 しかしながら、劇としての完成度は高い作品です。

審査員の講評(の主観的抜粋)

  • 最初と最後に演じていたダンスが、 そこら辺のダンス部を超える完成度で凄かった。
  • 演じてる方は「メタシアター」が何であるか本当に分かってやっているのか?  観ている方はなんだか分からなかった。

前橋西高校「改造人間」

脚本:喜多 淳
演出:大久保 岳

主観的感想

TVのヒーロー物に、演劇的ギャグを取り入れた作品。 笑いを狙っているのは分かるのだけど、不発が多かった様子。 笑える、笑えないの境界は難しいところにあるんだと観ていて感じました。 登場人物達が次々と気持ち独白するあたり、 観客を少し置いて行っている印象を持ちました。 (演技の)動きも適当で、間がうまく計れないのか、 タイミングを伺っている姿を何度も見かけました。 音のつけ方も、何か鳴らしてごまかす、という意図を感じてしまい、 もっと工夫をしてほしいなと感じた作品でした。

審査員の講評(の主観的抜粋)

  • 全体にメリハリがないために、流れがベタベタになる。 もっと、話の流れや、動き、シーンにメリハリをつければ違ってくる。
  • ステージの広さ負け。地区大会よりも広い舞台に、 地区大会で使った大道具を持ってきたのは失敗。 そのため、こじんまりとしたドタバタ感が出なかった。 舞台を狭める選択があっても良かったのではないか?
  • ピン(スポットライト)の外は、隠れているという、 芝居を観る上での約束があるが、 この劇ではピンの外の役者が動いてやりとりをしていた。