新田暁高校「メレンゲな昼下がり」

  • 作:青山 一也(既成)
  • 演出:斎藤 愛翔

あらすじ・概要

ある日の昼下がり、ダラダラと会話をする夫婦のお話。

感想

検索すれば台本が出てきますが、エチュードのような内容で日常のゆるっとした会話が続きます。上演時間約30分。

舞台奥の上下の白板を立てて、ブラウン管テレビとか、棚とか、服掛けとか置かれたお部屋の設定。空間の広さに対してものが少ないので、閑散とした印象もありました。

男と女が出てきますが、講評でも言われてたとおり夫婦には見えなかった。格好とか工夫するだけでも変わったと思いますが、二人の演技(関係性)が母親に食事をねだる息子って感じでした。夫婦の距離感や会話トーンではないよね。夫婦という関係を前提に演技を組み立てるか、いっそ親子に変更してもよかったのではないでしょうか。いずれにせよ、普段から仲が良いとか、実はよく喧嘩する関係とか、女の方が強いとか、そういう関係性を作り込んでそれが見えてくると良かったかと思います。

概ね「観客が男の台詞を理解する前に女が反応している」ので不自然でした。男の言葉を理解しないで反応していることになるので……。男の方はちょっとおとぼけな感じで演じていて、女の方は比較的しっかりした感じの演技だったのですが、人物の演じ分けはこれで本当に良かったのか少し考えてほしいと思います。男を普通に演じても良かったのでは。

ゆったり感を出したいからと、全体をゆったりさせてしまうと「ただただ間延び」してしまいますので、メリハリを付けて進行させてもよかったと思います。

部員2名とのことで色々大変ではあったと思いますが、今後もがんばってください。

新田暁高校「おかしの家」

作:青山 一也(顧問創作)
演出:根岸 祐里

あらすじ・概要

童話作家のさよこおばさんが亡くなった。その遺品整理にやってきた孫娘たち6人。整理していると高価なものが次々と出てくる。こんな高価な遺産、誰が相続するんだろう? そういえば、おばさんには娘が居たらしい……。

感想

全体にパネルを立てた部屋。奥が廊下。上手に勝手口、下手にテーブルと椅子、小物入れ(棚)。ハンガーがあったり、帽子掛けがあったり、和風っぽい家具があったり、ムードのあるいい装置でした。最初薄暗い照明で始まって、人が入ってきて明るくなった時点でほんと魅力的に映りました、期待大。これが掴みってやつなんでしょうね。もっとも講評では「広すぎる」って指摘もありましたけどリビングダイニングならこんなもんかなとも。

力の抜けた良い演技。ただ前半、一部の台詞が聞き取りにくい部分もありましたが、全体的には安心して見られる演技でした。そしてきちんと動きまで性格付けされていて、特に主役の動きがとても美しい(そういう性格の人物)。またそれぞれの動きが全体としてうるさくならないよう、とてもよく整理されている。見る側への配慮がとてもきちんとされている。これだけでもちゃんと演出が仕事していると分かります。人間関係がちゃんと見えてくるのが面白いです。講評で指摘されたとおり「誰と誰が姉妹なのか」とか分かりにくい面はありますが、それって別に早々わからせる必要はないよねって個人的には思います。ただ、それぞれの関係をもっと掘り下げたほうがいいという講評の指摘は一理あります(描写しろというのではなく、それを作りこんだ上で演じてほしいという意味だと思う)。

カギのかかった引き出しを開ける時の開かない演技もうまかった。

さて、その引き出しから「背守(せもり)」が出てくるのですが、これが劇中での重要アイテムになります。この劇には重要なキーワードが3つあって「背守」「童話」「おかしの家」です。……多くありませんか? ラスト付近で「おばさんの童話ってたくさんの人に読まれてるけど、おばさん自身はたった一人のために書いたんじゃないかな」って台詞があり、これが革新に迫る非常に良い台詞なのですが、この後のラストシーンで「おかしの家の話」をしてムードを壊し、最後にサスで強調されるのは童話ではなく背守。ここがちぐはぐなんです

背守は劇中で一番触れられているメインアイテムだと思うのですが、おかしの家は開幕部屋に入った時に一言触れただけ。童話については多少触れられているものの、童話の中身までは触れられていない。お涙頂戴が必ずしも正義ではありませんが「おばさん自身はたった一人のために書いたんじゃないかな」っていうものすごく良い台詞があり、後ひと押しでみんな感動するだろうってムードができてる。にも関わらずそれを活かしきれていない。

大胆な意見ですけども引き出しに入っていたものは(特別な)童話でよくないですか?。その童話をみつけて、あらすじを会話するシーン等があるだけでもラストの印象が違うと思います。童話ならラストシーンでサスを当てた時にも本なのでわかりやすい(背守だと見えません)。もうひとつ問題があって、このお話、おばさんが童話作家であるということのリアリティが薄い。童話作家ってそうそう簡単になれるものではないので確率論としてのリアリティがどうしても小さくなるところに、しかもお金持ちとなると更に疑問が残ってしまいます。お部屋も童話作家っぽくない(演出的配慮としてのリアル)。どういう経緯でなったのか、どういう経緯でお金持ちだったのか、おばさんの思いを浮かび上がらせつつ、おかしの家を絡めてそれを劇中で説明できていれば……というのはちょっと高望みしすぎでしょうか。

ラストシーンといえば、鍵を持ってきた亜紀が部屋から去り際に少し立ち止まり軽く振り返るところとか、もうたまらなかった。言葉ではなく動きで語らせる。本当によく配慮された素敵な演劇をたっぷり楽しめました。クオリティ高かったですよ!

桐生南高校「べいべー」

作:青山 一也(顧問創作)
演出:(表記なし)

あらすじ・概要

新生児室に揃った4人の赤ちゃん。一人は天然ボケ、一人は不良、一人は性同一性障害、一人は気難しい。この4人が大人に内緒でドタバタを繰り広げて。

主観的感想

脚本以外

脚本以外を先に述べます。開幕して父と母が「私たちの赤ちゃん」がどうのと言うのですが何を言っているかよく分かりません。声が聞き取れません。そもそもシーンとして必要ないと思います。完全に省略して直後の台詞から始まっても通じます。

生後数日の赤ちゃんなのに大人のように動き回り、そしておしゃべりをするという一幕もののコメディです。動きで魅せるということ、性格付けをきちんとするということ。この2つにきちんと気配りをして演じられていました。動きにほとんど隙がありませんでした。そして何より演じてる当人(役者)たちが心底楽しんで演じていたのがよくよく表れていました。

BGMの処理、アタックだけ大きめに聞かせ戻したりきちんとしていました。ただ、若干下げるのが早かったので人によってはトチったと勘違いしたかもしれません。そこだけちょっと注意です。細かいところですが医者とナースが「僕の胸に飛び込んでおいで」というシーンで一時的に大きくして盛り上げてもよかったと思います(これはコメディの典型的な音の使い方です)。

基本的にコメディなのですが、笑いに対する間の取り方や相づち(合いの手)が非常によく出来ていて、そんな細かいところまで本に書かれていたのかどうかは定かではありませんが、アレンジして演じていたのなら大したものだと思います。昔に比べて本当に力を付けてきたと思います。

「これは入賞もあるな」と思いました。結果的には入賞しなかったんですが、してもおかしくはなかったと思います。というのも、全体として非常によく台本を理解して演じており、よく審査基準となる台本の要請を満たしたかという点において、台本の求める(以上の?)完全な笑いの取り方をしていました。本当に素晴らしかったのです。

これだけ読むと大絶賛ですね。上演をみながらいつも気付いたことをメモに取るのですが、メモには上のような内容しか書かれていません。ただ一行を除いては。その一行は「30分が限界かな……」です。

脚本について

今回の上演をみて素直に感じたことは、ただ一言「台本の限界」です。青山先生の書かれる台本は好きですしコメディとして秀逸なのはいつも感服するところです。ただただ今回ばかりは残念なことに、コメディとして完成度が高まれば高まるほど中身がすっからかんになってしまいました。終盤40分ぐらいになると多少シリアスなシーンが入って、一人の両親のやや複雑な家庭環境が出されるのですが、それをラストに向けて解決しているのかと思いきや10分ぐらいで話を収束させ、違うところでオチて物語が終わります。「あれ?」と思いました。

30分が限界と書いたとおり、永遠とコメディをされても30分で飽きてきます。普通そこまでで物語の主軸に対する伏線を張っておくのがこの手の演劇の典型です。実際にこの本でも伏線が貼られていますが、後にならないとそれが伏線とわからない(伏線がわからないのは良いことなのですが、分からなすぎる)ために観客の印象としてはコメディしか残りません。

作者の青山先生のブログを読むところによれば、

『べいべー』には「大人への皮肉」が数多く含まれています。要するに、子供から大人へあかんべえをしているお芝居なんです。

なのだそうですが、であるならばそれら重要な台詞を笑いの「間」の中に書いてはダメです。いや書いてもいいのですが、笑いの「間」に書く限り笑いとしてしか伝わりません。笑いの「間」に書いて成立するものに唯一「ブラックジョーク」がありますが、ブラックという通りもっと「真っ黒」じゃないとまるで成り立ちません。

仮にこれらの皮肉が成立していたとしてどう変わっていたかと考えると、大分印象が変化しますがそれはそれでひとつの問題があります。あまりに多くのことを皮肉として使いすぎたために、話として収集が付かなくなってしまうのです。物を書くとき、ましてたった60分の本であるなら、最終的に話の軸を1点に絞り込む必要があります。4人の赤ちゃん(べいべー)のそれぞれを描くという手法には時間が足りず、主役をきちんと決め、軸を決め、そこに向けて削ぎ落とす(取捨選択する)作業がどうしても必要になります。

大分偉そうな発言になってしまいますが、桐生南の上演はいつも多かれ少なかれ「オチを取って付けた感」がします。コメディで始まり、そのうちにうっすらオチが見えてきて、最後はそのオチのゴールに向けて走るという印象です。ひとつだけ要望するなら、オチが決まったなら今度はオチから最初に向けて、後ろから前へ読んで修正(アレンジ)してほしいのです。オチに対して相応しくなかったら捨てる覚悟をしてから。それで随分違うのではないでしょうか。

全体的に

やっぱり今年も演出不在です(表記がないという意味ではなく居ないという意味)。笑わせること(能動)に対する追求、間、掛け合いは秀逸でしたが、それ以外はどうだったのかというとやっぱり弱かった。

大切なのは「観客に対して何を表現すればよいのか」ということ。演劇は残念ながらお笑い番組ではありません。もう今なら理解できると思いますが、演劇は「表現」なのです。表現とは「表したいもの」があって、それを観客と「共感」したいから生まれるのです。面白いものをみせて(観客に与えて)「笑わせる」のと、観客を引き込んで面白い気分にさせて(笑いたい気分にさせて)「笑いが起こる」のは天と地ほど違います。笑わせるのではなくて、楽しませる結果として笑いが起こる。

例えば友人と会話をしていて、突然変な顔をすれば笑うかもしれませんし、笑わないかもしれません。同じように会話をしていて、最近あった面白い出来事を話すとき、あなたはどんな風に話しますか? きっと「ああなって、こうなって、そしてこうやったら」と話すと思うのです。聞いているほうは、話に聞いた情景を想像して、あなたの話を想像の中で追体験して、そして笑います。話しているあなたと一緒になって笑います。「笑います」は「泣きます」でも「怒ります」でも何でも構いません。

演劇の本質は、観客との共感(シンパシー)にあります。表現全部の本質が共感にあると言っても過言ではありません。自分たちのことがまかなえる実力を持った今、次のステップとして観客をどうやって引き込むか考えてみてください。自分たちは一体何を表現したいのか、それを観客に伝える(観てもらう)ためにどうしたらいいのか。例え朝イチの上演になっても眠い目を閉じさせないためにはどうしたらいいのか。寒くて寒くて観てるのが辛い会場だったとしても自分たちの劇に集中してもらうにはどうしたらいいのか。「この台本を使って(文字通り利用するのです)何を表現するのか」そういう部分をすべてのスタッフと役者一人一人がもっともっと丁寧に考えてみてください。

桐生南高校「本日も大安なり」

脚本:青山 一也(顧問創作)
演出:藍原 宏心

あらすじ

同性愛の父親と、息子二人と娘(一番下)今日子。今日子は、父親のために恋人 大輔(男)を探し紹介する。そんなちょっと変わった、でもどこか温かい家族でのお話。

【以下ネタバレ】

ドタバタの中、家族に受け居られていく大輔と、それを快く思わない今日子。 やがて父と養子縁組をするという話になると、今日子は喧嘩をし、家を飛び出した。 それを追いかける大輔。彼女はファザコンだった。

主観的感想

【脚本について】

もう既に何作も創作脚本を書かれているベテラン(?)。 昨年の桐生南も同顧問の創作脚本でしたが、 シナリオの出来以前に力及ばすといった印象でした。 お話の作りは昨年よりも良い印象です。 上演パンフの紹介欄に(以下引用)、

この台本は非常に出来が良いのですが、とても難しく、 台本のレベルに生徒が付いていけないという状態が長く続いてしまいました。
とある通り、とても完成度の高い脚本です。 笑いの中に何か一つを描き出すという、演劇らしい要素がよく詰まっています。 多分本だけ読んでも面白いと思います。

ただ問題を上げるとすれば、 今日子のラストへのフリがないかな、前半から少し入れた方が良かったよう に感じます。

【脚本以外】

紹介にある通り、演技が頼りない。 一番上の兄貴、大輔に始まり、他も多少演技に不安を感じる。 笑わせるところではもっとオーバーにしていいし、 演技のメリハリ、強弱をもっと付けるといい。 兄貴とかは、もっと性格を出していいと思う。 この学校も、声のトーンがほぼ一本調子なのが残念。 その辺は自覚があるのか、台詞の間を意識的に開けることで 変化を付ける努力は買いたい。 ただ、だからと言ってトーンの変化、 声色の変化をしなくて良いという理由にはならない。 特に気になったのは、ラスト付近で今日子が飛び出していくシーン。 全然飛び出してないのでただ走っている。あれは大問題。

舞台が広すぎた印象。 幕などを使って狭めた方が良かったと思われます。 また、冒頭に内幕を引いてその前に出るシーンがありますが、 舞台を狭めて袖付近をスポットで使うとか、 なんとか一場面で済ませる工夫がほしかった。

【全体的に】

とにかく演技をもっと頑張ってください。 これだけ笑わせつつも、家族というテーマを描いたのは見事です。 演技が多少頼りないながらも、十二分に楽しんで観られる劇でした。

審査員の講評

【原】
  • 台本を読んだとき(同性愛もので)「これはすごいことになっちゃったな」と感じた。 これを高校演劇でやっていいのかとすら感じた。
  • 実際の舞台をみて、さわやかでドロドロしておらず、 ぜんぜんいヤラしさを感じないことがよかった。
  • お父さんが(高校生が演じているのに)お父さんに見えて、 しかもそれっぽく見えたのは上手かった(目つきのおかげか?)。 大輔の方もよかった。
  • 幕をおろして大学のシーンを(前)でやるが、あれは省けるのではないか。
  • お父さんが家族に受け入れられているわけで、 その告白をしたシーンの方が(この劇でフォーカスがあてたものより) よっぽどドラマではないかと考えてしまった。
【中】
  • 本来重たいテーマを軽く扱ってみせる劇という印象を受けた。
  • 家族が(お父さんを)明るく受け入れてしまっている姿が腑(ふ)に落ちない。
  • ラストの養子縁組の話は本当に必要だったのか?  そんなことをしなくても良いように、十分幸せそうに映ってしまった。
  • 一部の台詞が聞き取りにくかった。
【掘】
  • この本は青山先生しか書けないのではないかと感じた。
  • 軽いタッチで演出されていて、楽しめた。
  • リアル志向でやろうとしているのか、 嘘のリアル志向(そんなのあり得ないということの積み重ね)でやろうとしているのか、 どっちつかずの印象を受けた。
  • それが災いして、「嘘リアルな嘘(ばかばかしい嘘)によるリアルさ」ではなく、 単なる嘘っぽさを全体から感じてしまったのが残念。 (補足注釈:おそらく、 例えばお父さんの設定や家族に受け居られているなど無理のある部分を、 バカバカしい嘘によって裏付けすることで逆にお客の意識を取り込めたのではないか、 という意図の評だと思われる)

桐生南高校「アリスは筋書きの中で踊る」

脚本:青山 一也(顧問創作)
演出:藍原 宏心

劇の概要

ある少女が学校へ。 気がつくと、そこはなぜか不思議の国で、 その少女はみんなから「アリス」と呼ばれる。 アリスと呼ばれる少女は、驚き職員室へ向かうのだが……。

主観的感想

身も蓋もなく言ってしまえば、 導入とラストの方で掛かるテープ(スピーカーの音)にあるように 「周りの大人から、こうあるようにと求められ、そう演じ続ける少女」の物語。 不思議の国という舞台を用意する事で、直接的な明言を避けながら構成されています。 ただ、その不思議の国という舞台の中にテーマ性が埋没した感じがあって、 もっと現実的な問題に関する事件を劇中で起こしても良かったのかな、と少し感じました。 実際にアリスと呼ばれる少女が筋書きの中で動かされつつ、そこに抵抗を覚える。 在り来りですが、こういう構成の方か話が見えやすい。 とはいえ、創作脚本としては全体の中でもかなりよく出来ていると感じました。

演技・演出面では、全体的に無難すぎる印象がありました。 もっと突出した点をみせても良かったのではないでしょうか。 本に対する(演じ手の)理解が甘い感じもしました。 ラストシーンは印象に残すよう演出されていましたが、 やはり全体的にあと一歩踏み込んで欲しかった。

審査員の講評(の主観的抜粋)

  • 背面にある大きな衝立。扉の開け閉めは良かったのだけど、 閉まるときにバタンという音がしてしまうのはもったいなかった。 スポンジ等を使ってなんとかしてほかった。
  • よくまとめられ丁寧に作られているが、もう一つ何か「欲」のようなものがあれば。