伊勢崎清明高校「ダン・パラ」

作:小野里 康則(顧問創作)
演出:重村 成美

あらすじ

公園に散らかされたダンボール。一つのダンボールの中に入った少女は、やってきた少年に「拾ってください」と声をかける。拾ってくれる人なんか居ないと言う少年にぬいぐるみを手渡す少女。「ほら、あなたついさっきまでぬいぐるみを拾うなんて思ってなかったでしょう? だから拾ってくれる人だって居るかもしれないのです」。そうやって少年も、少女と共に道行く人に「拾ってください」と声をかける。やがて少年の父親もそこに加る。そこへやってくる市役所の人間。「1週間以内に撤去してください」という役所の人に連れられてきたのは、役所に雇われている少年の母親、父と少年を捨てた母親だった。

脚本について

生徒創作っぽくないなと思ったら、やはり顧問創作でした(パンフレットには記載なし)。少女と公園を中心に、ダンボールのパラダイス(楽園)を描いた気合の入った台本です。不思議な少女を中心として、少し変なお話がとても丁寧に描かれています。

主観的感想

聞きなれない高校名だなと思ったら、旧伊勢崎女子高校(昨年度共学化)だそうです。

とにもかくにも主役の少女(=演出)の演技力や存在感がすごすぎる。演技力で言えば「少女 >> 少年と父 >> 役所の人>母親」という感じで、高校演劇という枠を外しても十分な演技で(まさに舌を巻くという感じ)、その影響で他の役者が見劣ってしまった感じすらします。

舞台装置ですが、公園ということが分かりにくい。公園でブランコなどの遊具を囲んでいる手すりみたいなものを用意し、凝ったつくりの大きなトイレを配置するなどしていたのですが、いまいち。手すりならフェンス(金網)やコンクリ塀(ブロック塀)の方が分かりやすかったように思うし、トイレも大きい割には存在感があまりなく、逆に街頭などにように「いかにも」といった装置がない。全体として物は多いのに整然とし過ぎている(雑然さや遊びがない)という印象がありました。舞台装置は、装置そのものの選別や空間配置の問題が半分、登場人物が公園内の物体の存在にまったく触れないという問題が残り半分です(装置に対しての反応、まさにリアクションがなかったわけですね)。

音響。大きすぎます。母親を殴った後のBGMは大きすぎて台詞が聞き取れませんし、全体的にBGMの使用量も多めです。演劇は演技力で見せるものですのでBGMに安易に頼ってはいけません(→参考)。照明は使いこなしていたと思います。夜、昼の転換を含めて。天井スポット(サス)のとき、少し下がって顔を見えるようにする配慮もありました。

役所の人の格好。もっとそれらしい格好、例えば完全な作業着(役人が災害活動などで着るような服)か、またはスーツなどを着せるべき。メイン3人と立場を異にする2人の役人(母親含む)という立場なのですから、ぱっと見メイン3人とさして変わらない格好をしているのは問題です。見るからに違う服装をさせることで、この2グループは対立関係だということを言葉以上に明確に示すことができます。

結果的に家族劇、親子劇だったと思うのですが、それにしては親子関係におけるドラマがありません。これは本の問題でもあり、役者や演出の問題でもあります。少女にスポット当てるダンボールの楽園として、それを下支えする家族ドラマがまったく見えてこない。語られるのは「母親に捨てられた」という事実だけで、エピソードがないため観客は共感しませんし、ラストシーンもほとんど記憶に残りません。

一番の問題は少女そのもので、少女の正体や公園に居た理由が何もありません。別に深いドラマが必要というのではなく、例えば「少女は実は悪魔でした」とかでいいんですよ。そうすれば背筋がゾっとする終わり方になり、より強くダンボールの楽園が記憶に残ったと思うのです。何でもいいのですが、とにかくせめて何か最後に暗示させるものぐらいほしかったと思います。ラストシーンで、少女が悪魔的に微笑んで楽しんでるとか、そういうのでも十分だったわけですから。

【全体的に】

とにかく画(え)として綺麗で感傷的な舞台でした。逆に言えばそれしかなかったことが最大の問題。前に似たような劇をみたことあるなーと上演中ずっと気になっていたのですが、桐生第一ですね。舞台芸術として凝っていて実に細かいところまで配慮されているのに、大枠で空回りという点で同じです。

少女とダンボールがとても印象深い舞台で、いまだに色濃くイメージは残っているし、そういう意味では大成功だと思うのですが、絵画じゃなくて演劇なんだから観客を楽しませなきゃ(笑いのことではない)しょうがないわけです。そのための演劇であり、舞台であり、役者であり、台詞であり、ドラマ(60分の物語)なわけなんですから。この舞台、観客は一体どこを楽しめばよかったのですか?

審査員の講評

【担当】ヨシダ 朝 さん
  • 見終わって、脳裏に焼きついている感じがする。何日か経った後に思い出す芝居。
  • 台本を読んで、これを芝居として成り立たせるためには少女にカリスマ性が絶対必要で、それがないと成り立たないと思った。実際舞台は少女にそれがあって舞台として成り立っていた。
  • 選曲や明かりも良かった。ちょっとボリュームは大きかったかな。
  • 見ながらずっと思っていたのだけど、みんなよく稽古しているし、こういうニュアンスで伝えようってのも分かったけど、やってる人が思っているほどお客さんに届いてないと思う。
  • 見ながらどうしてかと、こういう理由なんじゃないかと思ったのは、例えばトイレも細かいところまで手が込んでいて、ダンボールもきちんと配置していて、きちんとしすぎていて、こちらが入れる隙間がない。芝居はお客さんを招き入れる隙間がないと楽しめない。
  • 例えば、パーティーとか、知り合いの家とか、綺麗過ぎてその場に入りにくいときってあるじゃないですか。入っちゃっていいのかなって。この劇は綺麗過ぎて入りこめていないと感じた。舞台はパーティーのホストなんだから、お客さんを招き入れなくちゃいけない。
  • 後半になったときはお客さんは芝居に集中していたので、前半がきっちりしすぎたのかなと思う。
  • この芝居は「芝居をみた」という感じはするものの、「芝居を体験した」とは感じない。お芝居なんだから体験させなくちゃいけない。
  • 物語の着地点が分かりにくい。少女が人間ではないとか、そういうのがあってもよかったのではないか。

まとめ感想 - 2006年度 群馬県大会

高校名演目結果
前橋南 コックと窓ふきとねこのいない時間 最優秀賞
新島学園 桜井家の掟 優秀賞
桐生南 ハムより薄い 優秀賞(次点校)
館林女子 ANTI- 創作脚本賞

今年は、欠点よりも長所(特に演技力)が評価されたと思います。観客として素直に楽しめたものが上位という感じで、前橋南は断トツの演技力。新島学園はわいわいとした高校演劇らしさのある活力ある劇をきちんと仕上げてきた点などが評価されたのでないでしょうか。桐生南については、顧問の先生ご自身も(ブログによると生徒自身も)不思議に思っているように不思議な点もありますが、欠点をなかったことにしてしまえば、やはり演技力(間の使い方)が評価されたと言っていいのではないかと思います。

比較的目立った欠点がないという意味では、高女、伊勢崎清明(旧伊勢崎女子)あたりが上位かなと思っていまし、逆に前橋南は舞台装置の寂しさと台詞の間という欠点が大きかったので入賞しないかなと思っていました。しかし、結果こうなってみると妥当だと思います。具体例は避けますが、過去(の評価)にはお客として楽しめた舞台と上位入賞の舞台が食い違うということもありましたし、そういう意味では今年はよい選択をしたのではないでしょうか。

ただ一方で、今回の関東大会出場2校を見たとき、このままでは関東を突破出来ないことも間違えないように感じます。欠点を克服してより仕上げることを期待しています。

創作脚本賞について。脚本そのものの完成度というよりは、脚本の着想「腐ってしまう人間」と「腐らない人間」という作りが高く評価された結果だと思います。いまいち題材を生かし切れていないようにも感じますので。

講評について

今年の講評ですが、ヨシダ先生(外部審査員)以外の評が例年に比べ甘かった気が。私の感想がキツすぎるという話もありますが。あくまでこちらのポリシーとしての話。

キツいこと言って落ち込ませるのが可哀想ってのも分からなくはないのですが、こと創作において欠点を指摘して改善するチャンスを与えないというのは余計可哀想なんじゃないかと思います。どんなに一生懸命に作ろうと、「意欲」と「根性」と「やる気」があったとしても、顧問の先生が演劇にあまり詳しくないというただそれだけの理由で大会に勝てない高校はたくさんあると思うのです。実際、全国どこをみても顧問が演劇に精通しているところが強いというのは定石になっています。

大会で講評するというのは、そういう不平等をなくす意味合いでも、また公式の大会でコメントをもらうことで自分たちの不足点を振り返るきっかけとするという意味でも大切だと思うんです。普段の部活で顧問の先生からは「気づいてても(生徒との関係を考えると)なかなか言いづらい」とか「言っても届かない」というのがあるかと思いますすが、練習に練習を重ねた大会作品に対する公式な評なら、届くと思うんですけど。――あくまで、理想論に過ぎませんが(汗)