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台本を演じるとき、どういうことに気を付けているでしょうか。台詞を覚えるのは大切なんですが最初に掴んでほしいなと思うのが、台本が何を表現しているかです。
よほど悪い台本でなければ、その台本にはきちんと意味があります。でもこのお話は「これこれこういうお話なんだよ」というのは台本のどこをみても説明されていません。台詞に書かれている言葉、シーンの流れからくみ取る必要があります。
例えばみにくいあひるの子という童話を知ってますよね。
「ねえ、みにくいあひるの子ってどういう物語?」
こう聞かれたらどう答えますか?
「アヒルの群の中で生まれたひな鳥が、一人姿が違うため周りからいじめられる。そして放浪し、最後に疲れ切ったひな鳥は水辺に行く。水面に映った姿から自分の姿がアヒルではなく美しい白鳥であったことに気付く物語」と答えれば間違ってはいませんが、「あらすじじゃなくて、どういう内容のお話? 何を表現しているお話? 何を訴えてるお話?」と聞かれたどう答えますか。
正解はありません。どんなものでも正解です。このように物語に意味を与える作業が解釈です。
さてここで質問です。
「みなさんが上演した台本はどういうお話ですか?」
この問いにきちんと答えられるでしょうか。即答できるでしょうか。即答できない人が多いのではないかと思うのです。例年の多くの上演で、解釈が行われていない(解釈を突き詰めていない)と感じるものがとても多くあります。台本をきちんと演じられるようになったら、台本のまま上演するというレベルは卒業しなければなりません。
解釈を与えることによって台本は演劇になります。演じる人たちのオリジナルの舞台になります。初めて演劇として生きてきます。初めて本物になります。解釈を行うために、みんなで「どういうお話か」と議論することは大切だし、必ずやってほしい。それも定期的に何度もやってほしい。
台本の解釈にはもう一つの要素があります。それは登場人物の解釈です。
登場人物の心情というのは、台詞に表れていますが直接的には書かれていません。台詞の裏を読む必要があります。どうしてその登場人物はそんなことを言ったのだろうか。どういう気持ちでその台詞をいったのだろうか。特に台本中のキーワードとなる重要な台詞には必ず意味があり、その裏に登場人物の心情があります。
それを解析し「こうだったに違いない」と決めてあげることが心情の解釈です。注意してほしいのは、これも正解は存在しないということです。作者の思った「こうだった」と同じである必要はありません。台詞や状況から自由に想像して決めていいのです。だからこそ解読ではなく解釈と言います。
みにくいあひるの子で言えば、アヒルの子(ひな鳥)はどういう気持ちだったのでしょうか。
実はアヒルの子ではなく白鳥だと分かったときはどうでしょう。
同じ台詞があったとしても、心情の解釈によってまったく違う表現になることは分かりますよね。*1
台本の解釈は最初に行うのが本来だとは思いますが、ある程度練習を行い、通し稽古ができるようになってから行っても構わないと思います。たぶん、そうする方が最初の時よりも深い解釈ができると思います。台本はよく読んでみるとシーンごとに表現したい内容が変化しています。その小さな表現の変化が、全体としての表現に繋がっていますので、1ページごとに「ここはどういうシーン」という解釈を与えてみるのも(またその議論をしてみるのも)大変よい練習になると思います。
自分たちなりの解釈をきちんと与えたら、次はそれをどう表現するか考えてみてください。どう表現したら自分たちの解釈が観客に伝わるのか懸命に工夫してください。大切なのは、台本の内容が伝わることでも、物語を理解してもらうことでも、役をうまく演じることでもないのです。自分たちの考えた想い(解釈)が観客に伝えられるかどうかが一番大切なのです。
解釈の大切さというのがなんとなく伝わりましたでしょうか。解釈をして表現するということは基本であるのですが、プロ劇団(小劇団)ですらおざなりにされることがあります。大変だなーと感じるかもしれませんが、ここが演劇の一番面白いところですので、ぜひとも実践されることを願います。
演技と言うとまず台詞を思い浮かべるでしょう。実際、台詞を覚えなければお話にならず、覚えた台詞をきちんと言えるかどうかは最重要です。この台詞をどう演じるか、自然な会話とはなにかということは、最近はよく研究され、演技に活かさているように感じます。
一方で、動作の演技・演出がおざなりになっている学校が目立つようになりました。動かなすぎたり、動いても不自然だったり、美しくなかったりしてます。
「ねえねえ、そこにあるノート取って」
こんなシーンを考えてみます。ただ言葉で言うだけでも通じますが、「そこ」と言う時に視線が「そこ」に行くだけでなく、思わず指を差してしまったりしませんか。取ってもらいたい相手が近くに居て、それが親しい友人なら「ねえねえ」という時に方や腕を軽く叩いたりしませんか?
次に、言い争いをしているシーンを考えてみます。
「どうして今まで黙ってたんだよ」
こんなとき、ただ言葉で言い合うだけなのでしょうか? 感情を高ぶらせて喚きながら、せいぜい机を叩いたり、足を大きく踏み込んで足音立てたりぐらいでしょうか。でも相手がそこに居るならガツガツと前に詰め寄ったり、顔を相手に向けてつきだしたり、場合によっては掴みかかって相手の体を振ったりしませんか? 「どうして」と言いながらダダダダダと相手に接近し、そこで台詞と動作を止め、「今まで」と言いながら少し離れ視線を外し「黙ってたんだよ」と言ってから相手を睨む。この例が良いか悪いかはともかく、体を使えばこれだけ色々な表現をすることができるのです。
こういう体の動きって、普段は感情の反応として自然と出てしまうものです。台詞の演技は良く研究されているようなので、同じ要領で体の反応についても研究してみると良いかもしれません。
人物の動作にはその人物像が出てきます。例えば、座り方ひとつ取ってもその人物の性別はもちろん性格まで出てくるのです。きちんと座るのか、ダルそうに座るのか、猫背で座るのかでも意味がぜんぜん違います。足を閉じるのか、開くのか。開くとしてもどのぐらい開くのか。これだけでも全然意味が違ってくるのです。
そして人物の関係性。台詞では表現しにくい登場人物たちの相互の関係性は動きによって表現することができます。
極端な話、人物AとBが戯れていれば仲が良いことがわかるし、その様子をCが羨ましそうに見ていて、それに気づいたBが軽く嫌そうな顔をすれば、たったそれだけで3人の関係性が如実に説明されます。むしろ、この体の演技を抜きにして台詞だけで関係性を表そうとするから嘘っぽくなるし真に迫らないのです。*1
動作に関連してもう1つあります。それは「静止」の動作です。これができていない学校が非常に多い。
静止と言ってもコメディのストップモーションを言っているのではありません。演技、演出上必要になった「止まるべき演技」のときにはきちんと止まってください。道路の「一時停止」でスピードを緩めて止まった風というのはNGです。どこから見ても分かるように止まる。頭のてっぺんからつま先まで神経を張り巡らせて止まる。特に、動作に美的なものが求められるシーンや人物では、動くことよりも止まることを意識してください。
美的でなくてもコメディ的な部分でもそうなのですが、動作にメリハリが感じられない理由の多くは「動き」の雑さよりも「停止」の雑さに原因があります。日常シーンではあまり必要にならないとは思いますが、「止まる」ということを意識すると動作のメリハリが付き、演技の印象がとても良くなりますのでぜひ覚えてください。
演出不在の上演や、実質的に顧問の先生が演出している上演が非常に多いのですが、演劇における演出の役割について説明したいと思います。
「それぞれのシーンでどういう風に動いたり、配置したりする人」
ぐらいのイメージの人多いのではないでしょうか。ついでにBGMとか装置の配置とか。全員でアイデアを出し合って演技を付けていくことは大切ですし、 「演出:○○演劇部」というのはまさにそれを示しているのでしょう。しかしこの方法にのみに頼ることは問題があります。
演劇の『演出』という役職は映像分野では『監督』に相当します。つまり、劇に関する最高責任者で、劇に関してすべてを決定できる代わりに面白くなっかたら全部その人の責任になってしまうぐらい重い立場に居るのが『演出』です。脚本を書いた人よりも、どの役者よりも一番偉いのが『演出』なのです。
作家はお話を書くとき「全体の大まかな流れを」決めてから「細部」を決めていきます。同様に、演出とは、台本を素材として全体をどうみせるか、 例えば「悲しい」「怖い」「家族愛」「形式美」「不条理」などの演出テーマを考え、その具体的な方法論を決定します。
こんな感じで全体プランを決め、それを踏まえて細部(各シーン)をどう作っていくのが全体目標に対してより効果的か考え、演技を決めていきます。
この「全体から細部におとしこむ」という作業がとてつもなく重用で、にも関わらずこの作業を行えてる(演出が仕事している)上演がとても少ないのです。
「全体から細部へ」という流れが抜けるために、細部(各シーン)の演技や演出だけ行ってしまうと、全体として散漫な(まとまりのない)印象となったり、テーマに対してちぐはぐな印象を受けたり、見た後で「結局何がしたかったんだろうか?」という疑問が生まれたりします。
そして演出は、本来は役者を兼任しないほうがよいのです。あくまで魅せることにこだわって、一歩も二歩も引いた視点から劇全体を眺める必要があります。当事者になってしまうと見えてこない、当事者から一歩引いた視点だからこそ見えてくるものがあるのです。「全体としてどう魅せるか?」ということは、そのシーンを賢明に演じているときは特に忘れてしまうからです。
部員不足もあるなか高校演劇において演出にそこまで求めるのはシビアだとは思います。しかし演出という役職をうまく作れないとしても、『全体としてどうみせるか』『全体の流れ、全体の強弱をどう付けるか』はみんなで常々気にしておいた方が良いでしょう。
高校演劇でよく見られる失敗のひとつに「全体的に一本調子で劇を演じてしまう」ことがあります。
音楽の話をしましょう。楽譜には「FF」(フォルティッシモ)に始まり「PP」(ピアニッシモ)まで、実に多くの強弱記号があります。いわゆるサビではFFで強く、最初や終わりはPPで弱く、またサビに入る直前ではいきなり切り替わらないで徐々に盛り上げていきます(音の強弱以外にもテンポも変化させます)。
市販の楽曲でも、サビがとても心地よく聞こえるのは、サビ以外の部分がサビを引き立てているからに他なりません。試しにサビの部分だけ繰り返し聴いてみれば、あっと言う間に飽きてしまいます。弱く歌う部分があるから強く歌う部分が引き立つし、強く歌う部分があるから弱く歌う部分に惹かれたりするのです。
この音楽の話は、ありとあらゆる創作についての示唆を含んでいます。
演劇も同様です。観ていて「とにかく笑わせよう、盛り上げよう」という意図を感じる上演があっても、逆にそればかりだと段々と辛くなってきます。とにかく元気よくテンポ良くやることが楽しませるコツではありますが、全体から見た「そのシーンの役割」も考えずそればかりをやってしまうと問題があります。どこが重要なシーンで、どこが魅せたいシーンなのか分からなくなってしまうのです。
会話をしていても、大切なことを言うときはトーンを落としてヒソヒソ声になる。そんな風にトーンやテンポに変化を付ければいい。例えば、ずっと笑わせていた上演で、急にテンポやトーンを落とした場面をみせれば、そこでグイっと引き込むことが出来る。 逆にテンポ押さえ気味に話を進めていて、最後の山場に向かってどんどんテンポやら調子をアップさせていけば クライマックスは相当印象的に映る。
ドラマでも映画でも何でも、原理は同じですから観察してみると色々と学ぶところがあります。
まず演劇(コンクール)は基本的に60分1幕でやるものだと思ってください。
いきなりむちゃくちゃ言うなと思うかもしれませんが、基本だと思っておくと良いです。というのも、演劇コンクールによくある失敗のひとつに暗転や場面転換が多すぎるというのがあります。
演劇はTVとは違います。TVのカット割りの感覚で暗転を使ってしまいますと、演劇では瞬時に切り替えることが到底不可能なので、かなり無理が出てしまいます。暗転するたびに観ている方の集中力も削がれます。よほどうまく処理する自信や工夫がないのでしたら、60分なら数回が限度だと思います。
暗転や場面転換の数を減らしたとして、どうやって話を組み立てるのかというお話をします。
例えば昔の県大会で上演された「あの大鴉、さえも」という作品では、登場人物3人は親方に頼まれてガラスを運んでいます。TV風に(説明的に)構成するとこんな感じでしょうか。
しかし実際の舞台はそうてはありませんでした。
時系列を逆転させ状況説明を実際の状況よりも後に持ってくることです。むしろ実際の状況を見せてしまえば、その説明なんて最小限で良いのです。場合によってはそもそも説明を放棄したっていいのです。
例えば帰り道に3人ぐらい居る状況を作ったとします。開口一番「映画面白かったね!」では、あまりに説明的すぎますし、不自然です。
のように自然と漏れる感想などを言ってるうちに、映画を見てきたことが伝わるぐらいだと良い感じになります。
さらに大量の情報を「説明台詞を使わずに」説明したいとします。
一番簡単な方法は、登場人物の知識の格差を使うことです。
事情を知っている人物Aと、事情をしらない人物Bを登場させ、Bに必要に応じて質問をさせれば良いのです。もし、そんなAとBの関係も説明したいなら、AかBの片方の知人としてCを連れてきて、Cに質問させればいいのです。知識の格差によって、比較的容易に状況説明を作り出せます。
ドラマ、またはテーマ部分に「心の問題」を持ってくることはよくあることだと思いますし、実際よく見られます。そんな時よく見かける問題があります。
こういうの部分は、脚本を書く人間、演出する人間の洞察力や視点の広さに依存してしまうのですが、それでもいくつかポイントとなる部分はあります。
まず第一にテーマをひとつに絞ることです。何を描きたいのか、何を物語の中心に据えたいのか、漠然としたものではなくただ1つに絞ってください。いくつかの障害や問題を設定するのもよいのですが、60分では描ききれない可能性が往々にしてあります。欲を出して、あれもこれも盛り込みたいとすると描写が分散してしまいます。
そして悩みや思いを安易に台詞で言わせないでください。例えば、AがBのことを好きという表現をする際、Aが「Bのことを好き」と喋らせるよりも、視線で意識したり、Bが居るだけでソワソワしたり態度が変わったり、Bの前では妙に元気だったりと見せる方がよっぽど説得力が生まれます。気持ちはエピソードで描くものなのです。世に氾濫する多くの作品(アニメや映画やドラマ)でも、この基本が守れていないものが数多く見られます。
例えば悩みを抱えた主人公AをヒロインBが心配しているとします。
などと言わせてしまってはいけません。そんなことを真っ向から相手に言いますか? 嘘っぽいです。リアリティがないのです。
そういう気持ちは態度で表す必要があります。Aのために一生懸命努力を重ねるBが、それでも受け入れられなかったり、うまく行かなかったり、逆効果になったりという、そういう歯がゆさを出してあげるのもひとつの方法です。象徴的なエピソードがひとつでも作れたら、それはもう大成功です。
「心の問題」に限らず、ラストに問題の解決を持ってくる、またはテーマを投げかける場合、大切なのはそれに見合った前フリです。問題の重さをラストシーンの前にきちんと観客に伝えておかなければ最後の解決は何の感動も生みません。そして一番多くの見られる勘違いは、心の問題はそうそう簡単に解決しないということです。
例えば、これを読んでいるあなた自身のことを考えてみてください。誰か嫌いな人はいますか? 大抵は誰かいますよね。では、その人のことを「明日から好きなれ」と言われて納得出来ますか? すぐに実行できますか? できませんよね。好き/嫌いというのは典型的な心の問題です。でもたかが「好き嫌い」です。そのたかが「好き嫌い」、たったそれだけのことでも気持ちを変化させるというのはもの凄く大変なのです。
高校演劇などで見られる心の問題は、こんな好き嫌いよりはるかに根の深い問題ばかりです。それを(ラスト10分ぐらいの言葉の投げかけで)あっさり解決されたときには茶番劇と誰だって思います。
じゃあどうするかと言えば、60分かけてたったひとつの問題を解決するだけの根拠を、物語り全編に渡ってばらまかなくてはならないのです。そして「本当にこの登場人物は気持ちを変えようと思うか」と何度も何度も慎重に検討を重ねて、そこまでしてやっと説得力というべきものが生まれます。そこまでして初めて想いは伝わるし、人は感動をします。
具体的方法はさまざまですが、ひとつ、有名台本などを、こういう視点で読んでみるとよい参考になると思います。ちょっとしたポイントを抑えるだけで脚本が見違えますので、ぜひやってみてください。
人物ごとに異なった性格付けや色づけを行い(おっとり型と勝ち気、不思議系などなど)、舞台上に違う個性の人物を配置することで面白みを出したり、その人物たちを適当に出入りさせ組み合わせを変えることで変化を付けるなどのテクニックは優れていても、その個性を持った人物たちのドラマという点で不足するなんてことがよくあります。
昔の上演作品で次のようなものがありました。
小説家である主人公が「なかなか小説が書けない」というところを物語の出発点として、最終的に自分で小説を書くというところにたどり着く
そのエンディングに説得力を持たせるために必要な描写は書くことに対する悩みや苦しみです。かと言って台詞で「書けない」と連呼させても全然伝わってきません。どうやってその気持ちを描くか、そのとき必要になってくるものこそドラマなのです。
そもそもドラマとは何なのか。登場人物の気持ちから生まれる行動がドラマです。ドラマを作ると言っても一概には言い難い部分がありますが、さっくり一番簡単な方法を述べます。それは対立です。
「書くことに対する悩みや苦しみ」を描く簡単な方法は「悩みも苦しみもなく書ける人」や「プロの物書き」などを登場させ、このような人物と戦わせることです。別に乱闘しろと言っているわけではありません。言葉を交わし互いに互いのことを述べさせる。その結果として物語りが転び何かしらの結論にたどり着く。言葉を単純にやり合うだけでの会話劇にすることなく「行動の差」として描くとより良いです。その対立二人にさらに第3者を足すのもよいでしょう。
もうひとつの方法は障害を設定することです。こっちの方が一般的かな。例えば小説を書こうとすると誰かが邪魔をして鉛筆などを隠す。家族などからほかの用事を頼まれ時間がなくなる。書くことを快く思わない人物が、いやがらせをする。
例えば昔の高女の「Story of story」では「筆が進まない主人公」と「書きたいけど書けない幽霊」という対立構造ができていました。にも関わらず、この二人がきちんと向き合って言葉を交わしておらず、対立しないから、お互いの気持ちが出てこないという問題がありました。
対立と拒否、そこから対話が生まれるのに、残念ながらこの作品の主人公奈央はこの会話サンプルのように言葉を交わすことなく、対立相手である「遙」という存在をなんとなく受け入れてしまう。これだとドラマが生まれない。
演劇がみんなドラマドラマされても困るのは確かですが、少なくとも心理的なテーマを扱うのならばドラマ的要素は切っても切り離せないのではないでしょうか。