安中高校「カレー屋の女」

作:佃 典彦
潤色:原沢 毅一(顧問)
演出:西川 由美

※最優秀賞(関東大会へ)

主観的感想

脚本はよく知られているようです。なぜか女性しか居ない離島に迷い込んだ、森本という男の話を描いた作品。 良い意味で高校演劇っぽくなく劇団の劇みたいでした。 まず登場人物が大人であって、高校生が演じているため若干の無理はあるものの、それでも迫力は十分。 こう、力強さのようなものが感じられました。 大人数が舞台の上で動く楽しみもあり、話が展開する横で皆で覗き見するなど印象深い。 イヤなオバさんを、ここまで高校生が演じられるものなのかとも感じました。

ただ、全体に完成度が高めだったせいか、逆に細かい点が気になりました。 死体を埋めるシーンで、シャベルで土を盛る動作がよく出来ていたのに対し、 バケツで土をかぶせる動きが軽そうであったり、 埋めかた、コップで台所の蛇口から水を注ぐ動き、カレーをよそり食べる仕草などが 適当であったりといった感じです。 また、若干森本の演技が弱かったように思われます。 あの状況に対して、やや冷静すぎ、楽観的すぎに思いました。 最終的にも、その主人公の心理が見えなかったためにオチの解釈が難しい。 この本(脚本)は人によって「汚いものと毛嫌い」しかねないものですが、 演劇らしいとも言えます。 とにかく圧倒されました。

審査員の講評(の主観的抜粋)

  • 大人向けの台本であって、なぜ高校演劇にこの本を選んだのかは若干疑問が残る。
  • (オチと関連して)森本という存在が島の人々にとってどんな存在だったのか、 また全体としてどういうお話なのか(オチなのか)がいまいち不透明、説明不足。
  • 島の人々が、どうしてこのような無惨なことをしなければならなかったのか。 なぜそれほどまでに追い込まれてしまったのか。そういう人間心理をもっと描いて欲しかった。

共愛学園高校「クレタ島の謎の謎」

脚本:中村 勉
演出:川合 和子

劇の概要

まずダンスに始まって、次に3名が出てメタシアターについて説明を始める。 メタシアター、劇中に関する演劇、演劇とは何であるかを 演劇によって考えていくための演劇。 それについて説明している姿も、はたして演劇なのか?  それとも劇に入る前の説明なのか?

演劇部を舞台に、先輩・後輩の間で演劇についてのやりとりと、 演劇関係の内輪ネタ、分かりやすいところで言えば 「どうせ(コンクールの)優劣なんて審査員の好みだよ」 みたいなものが多数出てくる。 演劇関係者しか笑えないネタに少々疑問を覚えながら、 そんなやりとりが約半分続く。 その後、「エチュードやります」と宣言し、 繰り返しエチュードを上演する。

主観的感想

全体的にテーマとの脈絡が感じられず、 本当に演劇の姿を追求する気があるのかな?  と疑問を感じて迎えたラスト近く、 テーマ付近の内容に触れて終わる。 出演者3人は本当によく(素晴らしく)演じられているにも関わらず、 メタシアターとしては少々軽すぎる印象。

劇中に「クレタ人のパラドックス」という台詞があります。 この言葉は「すべてのクレタ人は嘘つきだ」とクレタ人が言った。 このクレタ人は嘘つきか? 正直者か? という問いです。 類似のものとしては「この文章は間違っている」、 さてこの文章は正しいか、正しくないか? というものがあります。 この手の問題をパラドックス(逆説)と言います。 演劇というのは、現実を描いた虚構だし、 虚構なのに舞台の上で実際に起こっている現実です。 このパラドックスを、クレタ人のパラドックスに引っかけて 『演劇』の姿に迫るのが本来の狙いかなと感じました。

余談ですが、矛盾を追求し、 矛盾が抱える問題を分析することで真の姿が見えてくるというのは、 1900年代始め頃、数学(や哲学)の世界でよくやられた手法で、 クレタ人のパラドックスもこの文脈で出てきます。 背理法というのものをご存じでしょうか?  矛盾を導き出す事で、ある事実を証明する方法。 数学の世界で「どんな集合よりも大きな集合が存在する」って証明が 丁度この背理法を用いており、 矛盾によって更に大きな世界の存在を示しています。 そして、この証明法をほんのちょっと変えるだけでパラドックスが得られます。

完全な私情ですが、これを演劇に類推して 「演劇の中から、外の世界(現実)」を描けたならば、と残念に思います。 テーマに対する理解・説明がやや不足した印象を受けてました。 しかしながら、劇としての完成度は高い作品です。

審査員の講評(の主観的抜粋)

  • 最初と最後に演じていたダンスが、 そこら辺のダンス部を超える完成度で凄かった。
  • 演じてる方は「メタシアター」が何であるか本当に分かってやっているのか?  観ている方はなんだか分からなかった。