伊勢崎清明高校「あさぎゆめみし」

作:小野里康則(顧問創作)
演出:岩田 里都

あらすじ・概要

中学の遠足登山の最中で谷に落ちてしまった啓太と姫川、そして熊谷。さてどうしよう。

感想

くまむしくらぶの啓太と姫川が成長して中学生になりましたというお話。「くまむしくらぶ」を知ってると「啓太と姫川、変わらないな」と少しニヤニヤできます。虫好きはまだ変わらないのか(苦笑)

人物がステレオタイプなのは相変わらずなのですが、台詞の間が悪いかなという印象です。リアクションがとれてない感じです。全体的にギャグの流れなのにあまり笑いが取れてないのはその辺が原因だと思います。

舞台装置の高いところと、全体を広げて落ちた後の場所を切り替えてるあたりはうまく処理してたなと思います。

説明的な台詞がやや目立ち、BGMもやや説明的で、体を打って動けないはずの人物が気づいたら普通に歩いていたり、色々と細かいところが気になりました。

頑張って演じられていたとは思います。

伊勢崎清明高校「暗鬼」

作:小野里 康則(顧問創作)
演出:新井 笙子・今井 楓子
※優秀賞(関東大会へ)

あらすじ・概要

高校の八卦掌(気功みたいの)同好会の4人。かかってきた電話と共に急に様子が変わった敦子(アツコ)。それが気になる幼なじみの美紀。それから一週間敦子は学校に来なかった。親の看病で休んでたという敦子と、先日地元のショッピングモールで金髪姿の敦子を観たという同好会の詩織と瞳。そこで見た敦子は本人だったのか。同じ頃、金髪の敦子のものとおぼしきブログが見つかり、そこには夜遊び・男遊びをするブログ主の姿や美紀の中傷が……。

台本の感想

顧問創作脚本。……正直、ちょっと微妙。

カウンセラーの先生がステレオタイプすぎるように感じます。まず台詞がうそ臭い。「~だわ」「~のね」「~わね」。こんな先生本当に居るんでしょうか。スクールカウンセラーってことは少なくとも心理学関連の勉強はしているはずで、それを踏まえると生徒とのコミュニケーションを取り方、立ち位置も他人行儀すぎて不自然。信頼関係を作り、生徒の味方そして仲間になるのが普通じゃないのかと思います。「彼女」とか「あなた」とか他人行儀に言わないで名前で呼びませんか。ブログを見せて「それが敦子である」という方向から提示することもあり得ないし、生徒が言う意見をそう易々と否定するでしょうか。(観ていると否定してばかりです)

最大の問題と感じるのが、後半のカウンセラーの先生が他の先生に「多重人格」について説明してるらしきシーン。あまりにも説明的でこれ本当に必要だったのか。よくある「お勉強しました」状態。後半のクライマックスシーンのテンポと迫力を多大に汚しつつ、「多重人格」についての知識を観客にだけ与えている。舞台上の敦子以外3人よりも詳しい知識を観客にのみ与えることに物語上何の意味があるのか。

つまり、カウンセラーの先生である必要はなかったしそれが大きな問題だと感じました。例えば、担任や生徒指導の先生が事実の究明をしているという立ち位置だったらどうだったでしょうか。先生はあくまで事実を究明しようとしても不思議ではないし、心理学的な詳しい説明を登場人物以上に与えられることもなく、そこにある敦子と(別人格のアスカ)いう存在や物語上の出来事を通して「観客と登場人物」は同時に同じだけ理解する。どこに問題があるのでしょうか。むしろ現状より好ましくないでしょうか。おまけにこうやって削れた時間で、敦子の闇が垣間見えるエピソードを作ることもできる。

「ネットパトロール」についての説明台詞についても見られますが、やや過剰に説明しがちな傾向が作者の方にはあるように感じました。話はすごく良いのですけどね。

感想

黒幕もない、装置もない。広い舞台。八卦掌のシーンからスタート。講評でも指摘されていましたが、この八卦が美しくない。端的にヘタ。「同好会だから下手なんだ」といわれればたしかにそうなのですが、舞台演出としてはやはりある程度上手いほうが良いでしょう。その他の演技にも通じるのですが、動くことに意識が行きすぎて止まる演技ができてないため美しくない。止まるべきときは綺麗に静止してください。ダラーって動くから美しくなくなる。ラストのアスカ(敦子)が去るシーンもです。

4人の人物たちの性格付けや関係性がきちんと配慮され演じられていました。緊張があったのかも知れませんが、少し「間」(反応)が早い。相手の台詞を頭で理解し、そこから言いたいことを組み立てて反応するという様子が感じられません。前の台詞が終わったから次の台詞を言ってると感じられたシーンが多々ありました(特に前半~中盤。後半は良かった)。台詞の強弱はきちんと使い分けられていましたので、余計に惜しく感じられました。あとは少し力を抜いて演技できるとキンキンしなくてよかったでしょう。講評でも指摘されていましたが、身振り手振りも頑張っているんだけどどうにも不自然に感じられました。

もう1つ気になったのが、中盤でカウンセラーの先生と生徒たちが共に客席を向きながら対話するシーン。先生が舞台奥で生徒が舞台手前である意味は何かあったのでしょうか。また、先生と生徒という互いの互いに対する演技のチャンスを殺しているのはどうなのでしょうか。それと、ここでの間もなかったですね。

全体的に

終わってみれば敦子と美紀の物語なのですが、もう少しここに演出上の焦点を当てることはできなかったのでしょうか。終わってみるまで、同好会の4人ないしは「敦子とその他3人」という構図に見えていました。「暗鬼」のタイトルからして敦子の抱えている「闇」みたいなものが物語上とても重要なポイントではあるのですが、結局敦子「闇」が垣間見える部分って何かありましたか? 終盤になるまで敦子の背景が感じられないこと、そしてもう1つ。

敦子に対して揺れている美紀の姿が見えなかった。美紀は敦子の味方でありました。しかし詩織と瞳が帰った後、出てきた敦子から「本当の事を……」と言われたシーンで一時的に怒りました。さっきまで断固として敦子を信じていた美紀はなぜ怒ったのでしょう。真実を言えなかった事情さえも察して信じるのではありませんか。これに説得力をもたせるためには、詩織と瞳の言葉に揺らぎながらも信じようとする美紀が演じられていなければなりませんし、そうでなければこの物語は成り立たないのではないでしょうか。

同様に、ブログを作ってまで敦子を貶めようとした詩織(?)はなぜそこまでしたのでしょう。おそらく、詩織は美紀に対して好意を持っていて、美紀が何よりも敦子を大事にすることに嫉妬していたのですよね。その好意や嫉妬が(台詞以外の)演技や態度に出ていたのか、ここもやはり疑問が残ります。例えば、好意を持つ相手には物理的に近づこうとするし、嫉妬する相手には節々で不満そうになりますよね。現状でもかなり頑張って人物を演じているのですが、もっともっと深く掘り下げて演じてほしいなと感じました。

伊勢崎清明高校「ショータイム」

作:小野里 康則(顧問創作)
演出:入山あやめ・小林 楓

あらすじ・概要

海に住むルカは得体のしれないものに誘拐されてしまった。得体の知れない者たちは、棒のようなものを振り何かをさせたいようだ。同じく誘拐されたトラはうまく課題をこなせるものの、ルカはうまくこなすことができない。元の海に戻りたいルカたちだったが、お目見えの時がせまり……。

感想

小道具ぐらいしかないほとんど何もないステージに腕にエラをつけたルカたちが、カラフルな色をした得体の知れない生き物(赤や青という色)にさらわれる。その者たちとは言葉が通じない(「うー」とか「あー」とかしか言わない)。途中までよく分からなかったのですが、どうやら人間達に捕まりイルカショーの訓練をさせれるイルカたちを比喩しているようです。もうすこしその比喩であることを分からせる判断もあってもよかったかなと思いますが、どちらが良いかは悩ましいですね。

比喩的で難しい内容をよくがんばって演じていました。まして声が出せない人たちの演技というのは態度でするしかないわけで、そういう面での演劇らしさがあってよかったと思います。

ただ演劇は表現であって伝わってこそと考えたときは、もっと工夫がほしい。比喩表現も伝わなければ意味がない。ここはこういう比喩なんだよっていうだけでは舞台を作る側が楽しんでるだけで終わってしまいます。ラストシーンをみて解釈するならば、得体の知れない者たち(以下人間たち)に無理矢理振り回されて、いやいやながらも少しだけ気持ちを通わせてしまうという物語りです。であるならルカたちと人間たちの関係をもっともっと丁寧に作り込んでほしかった。ルカたちの人間たちへの気持ち、人間たちのルカたちに対する気持ち、そういうものを態度で示す。とても難しいけども、でもそれをしないとこの演劇は成立しない。

もうひとつ重要な要素はルカがこなせなかった課題。あれはもっと難しいものにしないと、ワザと失敗しているのがあからさまで見ている側が引いてしまう。難しい課題であれば観客は自然と応援します。がんばれっ、がんばれっと。この「がんばれ」があると無いでは演劇全体から受ける印象が全然違います。うまく観客から「がんばれ」という気持ちを引き出すことが出来れば、最後のシーンでルカが「もう一度挑戦したい」と言うことも、そこで成功したとき「よかった!!」という気持ちも観客と共有することができます(カタルシスという奴です)。本当に難しくなってしまいラストシーンで2度3度挑戦したってそれはそれで演劇上何ら問題無いのですから(むしろその方が良いぐらいなのですから)、何かそういう課題を用意できなかったものかと非常にもったいなく感じました。

この2点がクリアされれば、見違える舞台となっただろうに惜しく感じました。突然救いにやって来る「エール」という存在の意味も意義もよく分からず最後まで疑問符だけが残ったんですが、その存在を無くしてもこの劇は十分成り立つのではないかと思います(現状だと明らかに要らない)。例えば海に面した水族館が地震などの出来事で救われるという設定でもいいわけですから。

劇全体としてきちんと丁寧に作っていました。よかったです。

伊勢崎清明高校「くまむしくらぶ」

作:小野里康則(顧問創作)
演出:(表記なし)

あらすじ・概要

小学生の啓太はお風呂場に閉じこもっていた。飲まず食わずでクマムシになりたいと言っている。母親と従姉妹の仁で外に出るようにあれこれ工作するのだけど……。

※クマムシは炭化することで宇宙空間でも生きていける地上最強の生物と劇中で説明されています。

感想

舞台上、中央奥に何かあるなと思ったらどうやら風呂桶らしい(風呂桶と分かりませんでした)。棚とも椅子ともとれる装置が左右に2~3配置されている質素な舞台です。奥手が風呂場で、手前が部屋という設定みたいでした。場面転換によって右手側は学校の教室になったりしました。風呂場に閉じこもること(その風呂場から出てくること)が物語上の鍵なのですから、もう少し風呂場を意識させるセットを期待したいなと感じてしまいました。装置に扉を用意しろ労力をかけろと言っているのではなく、場所と空間の距離感を照明やちょっとした飾り、見えない壁といってものでみせる(パントマイムの意味にあらず)ことで十分提示することはできたのではないかと思います(たぶん、手前と奥で遠近法により大きさの差を出したかったのだと思いますが)。

演技は一生懸命されていました。よかったと思います。ですが一生懸命で頑張りすぎてしまった印象があります。声を客席に届けることで一生懸命だったのかもしれませんが、もうすこし声のトーンを意識して変えてみると良いと思います。早口になったりゆっくりなったり、弱く発声したり(抜き・ゆるみ)、強い口調で言ったり。そういう使い分けに気を配るともっと臨場感が増します。力を抜いた演技を少し研究すると良いのかなと感じました。プロの劇団や他校の上演が参考になると思います。単純に真似から始めてみるとよいのではないでしょうか。

最初登場したとき仁が父親にしかみえなくて、従姉妹のお兄ちゃんという設定らしいのですが、予想される設定年齢よりも高めに映り、年齢を高く見せることに苦労することの多い高校演劇と考えると不思議な気分になりました。学校で啓太が「KY、KY」といじめられるシーンでずっと「啓太はKY」という音をSEで流すのですが、役者が話す瞬間だけこのSEの音量を少し下げる音響操作をしていました。うまかったと思います。こういう細かい気配りはとっても大切です。

講評でも指摘されていましたが、姫川と啓太の和解シーンでBGMを流すのはやっぱり余計に感じました。気持ちは分かるのですが、BGMで状況(心情)を説明するという方法は、テレビの常套手段ながら演劇では禁じ手に近いものです。詳しくはこっちみてね

台本について

去年に引き続き顧問創作ということなのですが、独特な世界観だなあと感じます。物事を直接的に表現しない会話の記述はうまくされています。でも、こう言っては申しわけないけど、一言で表現すると華がない。悪い本ではないのですが、題材がやや小難しく、演じるのが難しい印象を受けます。

思うのですが、演じる生徒たちに原案(こんな内容の劇が上演したい)というのを決めてもらい、だいたいの話の流れまで考えてもらった上で、顧問の先生が創作台本を書かれてみてはどうでしょうか。その方が生徒のニーズ(上演したいという情熱)にマッチした本ができあがるように感じます。

全体的に

啓太は姫川みるくというクラスメイトに嫌われたと勘違いしいたというストーリーですが、この姫川の可愛さ(劇中曰くツンデレ)がよく出ていました。姫川をかわいく魅せるということに重点が置かれ、そのことを(すべての)役者たちがきちんと意識して観客に伝えようとしていたという姿勢が感じられとても好感が持てました。うまかったと思います。最後に啓太をお姫さまだっこするシーンなんか見せ場でしたね。

他方、主役の啓太が姫川や従姉妹の仁に完全に食われた印象があります。物語の主人公は啓太であって姫川ではありません。やや難しめの台本ではありますが、ネタ的にならず真に啓太の悩みとその解決を描くとしたらどうしたら良かったと思いますか? おそらく、啓太と仁のやりとりをもっともっと丁寧に描いて(演じて)あげることが必要だったのではないでしょうか。最初の状態の啓太と仁は、会話重ねることでだんだんと変化していったはずです。どういう風に変化していったかわかりますか? それを知るためには(台詞の)裏を読む練習と努力が欠かせません。そしてここには国語のテストの「そのときの○○の気持ちを答えなさい」のように正解もありません。役者やスタッフが一緒になって本を読み、議論を重ね、はじめて得られる答えであって、そうやって得た答えはどんなものでも正解です。これが啓太の気持ちなんだ、これが仁の気持ちなんだと役者自身の思った啓太や仁の姿を自信を持って演じると良いと思います。特に、台詞だけではなく体全体(動き)で表現すれと一層よくなります。

劇を作り上げる努力を強く感じただけに、もう一歩というところでもったいないなと感じました。台詞ではなく気持ちを演じること(「気持ちを入れる」と言ったりします)に気を付けてみると、すごく上達すると思います。大変だとは思いますが、がんばってください。

伊勢崎清明高校「幻私痛」

作:小野里 康則(顧問創作)
演出:佐藤 杏子

あらすじ・概要

がれきの山で目覚めた女。人は誰も居ない。震災でもあったのだろうか……人を探して数日、やっと男を見つけるのだった。

主観的感想

脚本について

顧問の創作脚本です。地震(震災)後というイメージを直接的に表現せず、状況を説明するには遠い台詞から徐々に震災ということを説明するあたりきちんと基礎を押さえた台詞回しがされていました。

話は「ガレキのイメージ」とそこを彷徨う男と女、そして「自分たちは存在するのか」という実在への疑問から街の見る夢にまでたどり着く悲痛な話です。おそらく戦争か都市がひとつ消えてしまうような大災害をイメージして作られています。

しかしそれにしては台詞回しが軽妙であって、命あるモノが存在しないという背筋が凍るような状況がなかなか描き切れていません。必ずしも本のせいとは言えない面はありますが、情景をあまりに無視した台詞回しでシニカル(皮肉)にすらなっていないところに大きな問題があります。この作品(主題)は大枠としての「滅亡感」や「破滅感」があって、そこに唯一の「生」(希望)である男女が描かれてこそ成り立つものであり、大枠としての悲壮感を描くことなく登場人物の「生」にばかり着目しすぎた面は否めません。

例えば、最初から男女を登場させ、男を悲壮的な考えの持ち主(「暗」)、女を明るい未来的な考えの持ち主(「明」)と設定した上で、対話させつつ、街という状況から対話の材料を与えるという話作りならば、まったく違って見えたと思います。1つ1つのエピソードも適当に繋げたという疑問が拭えません。

「どうしたら(話の大前提である)破滅を描けるか」(伝えられるか)を台詞回しからも、エピソードからも、もっと丁寧に突き詰めてほしいと感じました。

脚本以外

台詞もそうですが、演技にも悲壮感がまるでありません。世界観である「破滅した世界」に居たらどういう気持ちになるかという思考が不足しています。役者が理解した気持ちしか観客には伝わらないのですから、その点は残念でした。また台詞が多く、対話の間が悪くなっています(「間」が無い。間を作るための時間的余裕がないぐらい台詞が多い)。気持ちの理解が不足しているため「命あるものの音が、一切消えてしまったのよ」といった台詞がどこか浮いて聞こえます。全体的に台本に台詞を言わされているように聞こえてしまいます

男はガレキの下から救い出されるとお腹に金属の棒が刺さっていました。しばらくしてから劇中の登場人物達が気付くのですが、観客は助けられた瞬間から気付いているため、理解にタイムラグが起きます。何か狙ったものならまだしも、コメディとしても成立していなので微妙な感じになってしまいました。

あれこれ言ってしまいましたが、装置のガレキ感はよくつくってあったと思いますし、役者もとても頑張って(精一杯)演じていました。その一生懸命さが気持ちのいい劇でした。少人数で大変だと思いますが、役者とスタッフが両方一緒になって「本読み(気持ちの理解)」にもっと力を入れるとうんと良くなると思います。