桐生南高校「やさしいひと」

作:青山 一也(顧問創作) ※台本はこちらのサイトで読むことができます
演出:徳田 彩香
※優秀賞

あらすじ・概要

両親が居ない後藤家5人兄弟姉妹の元へ大輔という男性がやってきた。(同性愛である)兄のために彼氏候補として次女はるかが連れてきて、一緒に暮らすことになる兄弟たちと大輔。少しずつ変化するみんなの気持ちの中で、やがて家族同然となり兄と大輔は距離を縮めていく。そんな中、はるかはだんだんと不機嫌になり……。

感想

結構期待してみました。一軒家のリビングのイメージで真ん中にテーブル、壁には柱のハリがあり高さもしっかり8尺ぐらいある。奥に廊下で階段が少しみえ、右手側にお勝手。左手側に窓。部屋の奥が玄関なんだろうなあとか、そういうのを想像させるいい装置でした。

物語は次女はるかが、兄に「今日、会ってほしい人がいるんだけど……」というところからはじまり、大輔がやってきたことによる兄弟の変化が主軸になっています。ベース作だという「本日は大安なり」を観ているのですが改作というよりはまったく違う劇という印象をうけました(台本を読み比べるとたしかに似てます。月日が経って忘れたのか、はたまた演技力の差か)。こういうセクシャルマイノリティを嘘っぽくなく書けるのは青山先生らしいところですね。説明台詞を排除してあり台詞だけただ読んで上演しても観客に何一つ伝わらないまさに演劇らしい演劇台本になっています。

観てびっくりしました。すごい良かった。ちゃんと演出が仕事してるのね。ここまで演出が仕事した舞台は県内では久々に見た気がします。動作や台詞の間、動きのひとつひとつに至るまで努力と工夫を重ねきちんと計算されているのがよく分かりました。タイミングが絶妙。そして役者が個々に人物を掘り下げ、台本の台詞をそのままやるのではなくアレンジし、台本とは異なる人物像を作り上げいるのもよかった。役者が台詞に頼ることなく態度や視線・動きで表現し、動作と停止を含めてきちんと演じている。特にお兄さんよかったなあ。動作も声の張り上げとかも、ものすごくよかった。たしかに役者さんによって声が聞き取りにくかったり、若干演技の甘い場所はありましたが、そこは書かなくても分かっているのでしょう。

気になったところは、講評でも指摘されていましたがやはりテーブルクロス。どんどん左にずれていってしまった。アドリブで直せるとよかったと思います。もうひとつ、途中で1ヶ月や半年などの時間経過があるのですが、部屋や服装がほとんど変化しないのがやはり気になりました。テンポよく転換するので仕方ない面はありますが、テーブルクロスを変えるとか(ずれないように重ねておいて上を1枚取るとか)、小物が増えてるとか、カレンダーをめくる以外に何か工夫がほしかった。カレンダーも「月」が客席からも見えやすいカレンダーを選ぶ(もしくつは作る)などの工夫があってよかったと思います。物語上半年や1年も経過する必然性は無いのだから「春から夏にかけて」のように季節の変化を出しやすい設定をしてしまう手も選択肢としてあったでしょう。

クオリティ高いんだけどさらに上を目指すなら、関係というものにもっと注目してほしかった。兄と大輔の引かれ合う間柄というのがもっと見えてほしかった。(台本のとおりなんだけど)中盤「さん付け?」と気になってしまった(さん付けから名前に変わるのはもう少し早くする選択肢もあったのかも)。例えば家族の前では視線を気にするだろうけど、特に二人きりになるシーンならちょっと好意みたいのが透けていいと思う。台詞じゃない恋心。もうひとつ、兄とはるかの関係。はるかが兄を慕う様子がもっと態度に出たらよかった。おなじことは他の兄弟にも言えて、そんな3人のことを(何も考えてないというのを含めて)他の兄弟はそれぞれどう思っていたんだろうかと感じてしまいました。もちろん現状でも演じていたんだけど、そういうのがもっと見えてほしかった。

こういう関係を描くのはいかにも仲良さそうなシーンよりそうでない日常シーンの方がはるかに向いているので、中盤3つのエピソードを1つ絞り膨らませ、二人の距離が縮まったきっかけエピソードを挿入するといいのかも。それを見ている家族の態度で、それぞれの気持ちも描けるし。

全体的に

本当によく出来ていて上映終わったときにほろりと来て、上演1分オーバーにも関わらずラストを巻きで終わらせなかった判断にまたほろり(苦笑)。客席に目の赤い人もちらほらみかけましたし。たぶん上演時間オーバーは、観客の「笑い待ち」をきちんとしたためなんじゃないかな。

お世辞抜きで今大会で一番よかったと思います。過去に見た桐南の上演の中でも一番良かったと思います。ほんとに関東大会行ってほしかった。行って全くおかしくない上演だったとそう思います。

伊勢崎清明高校「ショータイム」

作:小野里 康則(顧問創作)
演出:入山あやめ・小林 楓

あらすじ・概要

海に住むルカは得体のしれないものに誘拐されてしまった。得体の知れない者たちは、棒のようなものを振り何かをさせたいようだ。同じく誘拐されたトラはうまく課題をこなせるものの、ルカはうまくこなすことができない。元の海に戻りたいルカたちだったが、お目見えの時がせまり……。

感想

小道具ぐらいしかないほとんど何もないステージに腕にエラをつけたルカたちが、カラフルな色をした得体の知れない生き物(赤や青という色)にさらわれる。その者たちとは言葉が通じない(「うー」とか「あー」とかしか言わない)。途中までよく分からなかったのですが、どうやら人間達に捕まりイルカショーの訓練をさせれるイルカたちを比喩しているようです。もうすこしその比喩であることを分からせる判断もあってもよかったかなと思いますが、どちらが良いかは悩ましいですね。

比喩的で難しい内容をよくがんばって演じていました。まして声が出せない人たちの演技というのは態度でするしかないわけで、そういう面での演劇らしさがあってよかったと思います。

ただ演劇は表現であって伝わってこそと考えたときは、もっと工夫がほしい。比喩表現も伝わなければ意味がない。ここはこういう比喩なんだよっていうだけでは舞台を作る側が楽しんでるだけで終わってしまいます。ラストシーンをみて解釈するならば、得体の知れない者たち(以下人間たち)に無理矢理振り回されて、いやいやながらも少しだけ気持ちを通わせてしまうという物語りです。であるならルカたちと人間たちの関係をもっともっと丁寧に作り込んでほしかった。ルカたちの人間たちへの気持ち、人間たちのルカたちに対する気持ち、そういうものを態度で示す。とても難しいけども、でもそれをしないとこの演劇は成立しない。

もうひとつ重要な要素はルカがこなせなかった課題。あれはもっと難しいものにしないと、ワザと失敗しているのがあからさまで見ている側が引いてしまう。難しい課題であれば観客は自然と応援します。がんばれっ、がんばれっと。この「がんばれ」があると無いでは演劇全体から受ける印象が全然違います。うまく観客から「がんばれ」という気持ちを引き出すことが出来れば、最後のシーンでルカが「もう一度挑戦したい」と言うことも、そこで成功したとき「よかった!!」という気持ちも観客と共有することができます(カタルシスという奴です)。本当に難しくなってしまいラストシーンで2度3度挑戦したってそれはそれで演劇上何ら問題無いのですから(むしろその方が良いぐらいなのですから)、何かそういう課題を用意できなかったものかと非常にもったいなく感じました。

この2点がクリアされれば、見違える舞台となっただろうに惜しく感じました。突然救いにやって来る「エール」という存在の意味も意義もよく分からず最後まで疑問符だけが残ったんですが、その存在を無くしてもこの劇は十分成り立つのではないかと思います(現状だと明らかに要らない)。例えば海に面した水族館が地震などの出来事で救われるという設定でもいいわけですから。

劇全体としてきちんと丁寧に作っていました。よかったです。

前橋南高校「黒塚Sep.」

作:前橋南高校演劇部(生徒/創作)
作:原澤 毅一(顧問/創作)
演出:黒澤 理生
※優秀賞(関東大会へ)

あらすじ・概要

ぶっちは来週に時期が迫った演劇コンクール地区大会についての話し合いをするため部員達を部屋に呼び出した。インフルエンザで学校が休校・部活中止になる中、そもそも地区大会はやるのか。そんな話をしながら結局何も決まらない話し合いは……。

感想

生徒原案、顧問創作なのか共作なのか。伊勢崎・高崎や地元ショッピングモールなどの地名も出て、過去2回の前橋南の「能」の上演の話もあり、明らかに前橋南高校演劇部を想定して書かれた台本です。

部屋の壁が灰色で、(実家の2階の部屋という設定にも関わらず)一人暮らしかというぐらい部屋が乱雑によごれていて、バンドのポスターが3つぐらい貼られた普通っぽいけど狂気を感じる部屋。始まって「今度は普通の現代劇か?」と油断したところで、明らかにおかしい「動作停止」(人の出入りのときに多い)やラジカセでの音楽再生をきっかけとする赤と青の異常な照明、ぶっち以外には目に見えない来客者の友人など。

演出・演技が高いレベルにあって、それでありながら作品が理解を拒むというおそろしい作品です。去年の能っぽい作品をより悪化(進化)させた現代風舞台とも言えます。残念ながら個人的に全く好きではないものの、本作は突き抜けているよなあと感じます。理解を拒む構成、これはなんなんだと感じさせる気持ち悪さ。演技が下手だったりすれば「なんだこの駄作」で済むのですがそういうわけでもないので、とても気持ちの悪い作品です。どうしてここまで奇をてらって作れるかなあという不思議はあります。

ですので、噛み合わないのを承知で(異なる価値観で)率直に感想を書いてみようと思います。それはつまり分からんということ。分からないことを半ば意図的にやっている作品に分からないと言っても仕方ないのですが、去年もその傾向はありましたがそれっぽいものを見せて煙に巻いてやろうという印象がとても強い。そういう意味でものすごく意地の悪い舞台にみえてしまう。演劇や舞台に対する表現の捉え方はそれぞれですが、私は表現=伝える媒体だと思っているので「あえて伝えないこの舞台はなにがしたいんだ」となる。他のお客さんはどう捉えたのかは、興味深くはあります。

色々言いましたがここまで突き抜けられるのも凄い事です。関東大会がんばってください。

共愛学園高校「ドロシー」

作:荒井 正人(顧問創作)
演出:石澤 光

あらすじ・概要

もう地区大会も近いけど、演劇部員は3人。そのうち1人は学校にこない。そんな状況を切々と語る物語。

感想

久しぶりの共愛です。舞台上に何もなく黒幕だけ引かれていて、3人の登場人物が交代で一人語りをすることで物語を紡ぎ出していく。登場人物の設定は共愛学園高校演劇部の生徒で、以前にあった出来事を振りかえながら時事ネタを入れて語る。リアル志向でいかにも「本当にあった話?」と錯覚させるような作り。登場人物の名前が本名だったら本当に錯覚しかねない。舞台上で「これからドロシーという物語を木村さんが説明します」というのだけど、どこまでが舞台上の真実でどこまでが舞台上の物語なのか分からない。そうすることで、創作にリアリティを与えるという実験的とも挑戦的ともいえる舞台でした。

講評で指摘されていましたが、登場人物が関係を持たないのでそういう意味で演劇らしさはなかった。語りは、ものすごくよく話していたもののあまり真に迫らない。この話の中心人物である木村さんと、木村さんが電車で見たという紙にマルを書き続ける目の見えない少年。木村さんが手をくるくる回している動作が何のことだか全く分からなかったのですが、ラストシーンでようやく「マルを書く」ということなのかと。

おそらく準備や道具を用意できないなどの制約の中から生まれた台本であり演劇なのだろうけど、非常に難しいし悩ましい。人と人の交流がみたかったというのが正直な感想であり、語りの中でもその要素を入れることはできたと思うだけに、なぜそれをしなかったのだろうと感じました。もうひとつ。少年と木村さんの関係をもう少し際立たせてよかった気がします。講評で指摘されたとおり、田川さんと瀬川さんの差がほとんど分からなかったのですから、このうち1人が少年役でもよかったよなあと。

そういう意味で少なくとも県大会まで時間もあったわけだし、一工夫でも、二工夫でもできたんじゃないかとは思いました。

太田フレックス高校「BOX DIVERS」

作:大渕 秀代(顧問創作)
演出:(表記なし)
※創作脚本賞(2年連続)

あらすじ・概要

舞台の上に箱が5つ。ここはレンタルビデオ店だろうか。中からでてきた人たちが、なぜか観ていたビデオの姿に変身していた。自分の本当の名前が思い出せない。これはどうなってるんだろう。そのうち1つから宇宙人がでてきて、その子のために子供に戻って親を捜そうとする。子供に戻るためのビデオテープを再生しているところに泥棒が入ってきて、子供たちに囲まれる泥棒。

そんなやりとりの中、これはビデオテープが人間に影響を及ぼして人間の心を支配する実験だということがあかされる。この実験はどうなってしまうのか、登場人物達はどうなってしまうのか。

感想

舞台上には灰色の人が入れる大きな箱が5つおいてあります。シンプルですが箱は結構大きく、かなり作るのは大変だったようです。パンフレットによると総合芸術を目指しましたってことなのですが……。

細かいところから見ていくとBGMの音割れがひどかったり、演技があまり緩めてないのでお客さんが引き込めてなかったりとか、最初の伊達政宗やら魔法少女やらに変身したところの格好がいまいちしょぼかったり(特に伊達政宗は刀が。予算の都合もあるとは思いますが、おみやげもの程度のものは用意してほしかった)、ものすごくがんばって作っているんだけども、パンフレットの総合芸術ってところから考えるならばそれぞれに少しずつ難点があるなあという印象でした。

発声と早口が問題で一部の台詞が聞き取れなかったり、コメディ的なかけあいのシーンでは台詞と台詞の「間」の使い方がやや甘くいまいち笑いがとれなかったり(もっと時間をとって演じればちゃんとやる実力はあったように思います)、演技の台詞というより動作にメリハリがなく「ゆるゆる、ぬる~っとした動作」に感じたところがあったりというのも気になりました。メリハリというのは動きを意識的に止めたり、台詞のトーンを意識的に落とすことで生まれます。止めることで動作が目立つ、緩めることで強さが目立つ。参考までに。

全体的に

これは何の物語なのかなと考えながら観劇していましたが、話はサイコホラーのようでした。昨年同様難解(奇怪?)な台本を丁寧に作り込んではいたのですが、それだけに残念で仕方ない。はっきり言って本が悪い。原案は生徒なのかなどうか分かりませんが、とにかく最初の着想(構想)に対して肉付けの段階で余計な要素が多すぎて作り込みで破綻している印象です。そして登場人物がみんなステレオタイプの薄っぺら。その人物に対して親近感を持ったり、広がりを持ってみさせるためのエピソードが何もない。例えば、挫けたり、頑張ったりというエピソードがない。感情移入しないからサイコホラーなのに怖くないし、面白みが半減してしまう。観客視点でのスポットの当て方、人物の立たせ方が台本としても演出としても考慮されないので、よく分からないものになってしまった。

去年もその傾向がありますが今年は輪をかけてひどく、執筆者の顧問の先生には申しわけないですがここを指摘しない訳にはいきません。もちろんダメダメなのではなくて、ある程度のクオリティは担保された台本であるのですが、着想の面白さを十分に生かせなかったのが勿体ないという印象です。どんな台本だって多かれ少なかれ欠点はあるのですけども、人物像のステレオタイプを演劇に翻訳する仮定で克服せよという課題なのだとしても、これはいくらなんでも難題すぎると思います。

演出の面で例をあげれば、途中で幻想的なBGMを鳴らして箱を動かしているシーンがあります。このシーンはたしかに幻想的で総合芸術っぽい感じです。ですが「そのシーンはこの物語りに必要か?」ということを部員自ら自問してほしかった。観客に対し、物語をより楽しむ上で何の効果を狙っていましたか? そういう配慮がない。よく意味もなく踊る学校がありますが(劇団キャラメルボックスの影響らしいですが)、何にせよそういうぽいものを何も考えず単純のはめ込むことは劇全体をクオリティを下げることはあっても上げることはありません。

以上辛口にはなってしまいましたが、舞台はものすごく真摯に作られていたし演技もがんばっていました。決して取り組み問題があった訳じゃないし、努力が足りなかったわけでもない。演技力が致命的に足りないとかそういうこともない。むしろレベルは高いほうです。箱に入って子供に戻るシーンでキャストを入れ替えてしまうなど(それも自然な形で)よく工夫もされている。そういう数え切れない努力がたくさんあって、舞台をよくしようという情熱が見える。だからそれだけに惜しくてたまらない。

演劇部の人が読んでいたら参考にしてほしいのですが、演劇というのは1に台本・2に演出です。顧問の先生のしかも2年連続創作脚本賞を取るような台本にNoを突きつける選択肢は生徒には存在しないかと思いますが、大渕先生の台本には「人物に深みがない」という高校演劇台本としては致命的欠陥があります。高校演劇と限定したのは、普通の劇団が上演するならば台本解釈と演出という過程を経てこの問題はクリアされるからです。演劇の原案として考えれば魅力的でも台本のとおり演じるとなると問題だらけ。拒否権発動が事実上無理な以上、よく台本を吟味し、アレンジして、どういう料理にするかぜひ検討してみてください。観客の前にどういう「舞台」という名の料理を提供するか、この料理は「観客からみたらどんな味になるか」ということにものすごく拘ってみるといいと思います。細かい舞台の作り込みというのは、まず「どういう料理を提供するか」決まってから考えた方がいいです。それだけで見違えるんじゃないかと思います。

演劇に対する姿勢や努力はとてもよく分かりますので、これからもがんばってください。