共愛学園高校「七人の部長」

  • 作:越智 優(既成)
  • 演出:飯塚 ゆき子
  • 優秀賞

あらすじ・概要

部活動の予算編成会議のために集まった7人の部長たち。学校の都合で去年よりも更に減らされた予算をこのまま了承するのか。話し合いが始まった……。

感想

高校演劇における超有名台本で、観るのは4回目です。

舞台奥に黒板を配置して、その手前にテーブル。テーブルのまわりに椅子をばらばらと乱雑に配置した舞台でした。途中、みんなが黒板の方を向いて進行する場面もあり、向き合ってる1人を除いて6人の役者が観客におしりを向けながら進むという、ある種異様なシーンも何度も登場。それでもちゃんと台詞が聞き取れるのはすごい。

問題は講評で指摘されていたとおり早口なことでしょうか。発声がかなりしっかりしているので、それでもほとんどの台詞は聞き取れるのですが、「掛け合いの妙を楽しませる台本」なのに台詞の理解がワンテンポ遅れるので、ぜんぜん笑いが取れていない。リアクションも取れてません。

5分残しての上演ということから考えるに緊張してしまったのかな? 演者が他の人のペースに巻き込まれるということもよくありますし、みんなでどんどん巻いてしまったのかなと思いました。練習ではちゃんと笑える上演だったのかもしれません。でも、残念ながら本番が全てなのですよね……。

人物の動きやリアクションも気になってしまいました。

  • 誰かが話そうとすると、みんな顔を向けて少し前かがみ
  • 何か説明されると、みんな顔を縦に振ってうなずく
  • 大きい声にはみんな体を引いて反応

などなど記号の動作ばかり。全部コメディの演出なのですよね。しかし、こういう演出をしてしまうと人物の会話としての面白さを殺してしまいます。この台本の「笑い」はあくまで演劇の笑いであって、漫才コントやTVコメディの台本ではありません。野球部なら野球部の、演劇部なら演劇部の、生徒会長なら生徒会長の、それぞれの人物がきちんと生きて、それぞれの背景や立場を理解していき、そこに成り立つ会話が面白いという作りなのです。要するに、笑うには登場人物のリアリティが必要なのてす。しかしこの演出はリアリティを殺す演出です。

もうひとつ問題が誰が何部かよくわからないことです。全員同じ制服姿です。スカートの下にジャージを着ている人も居ましたが、ほとんど目立たない。せめて持ち物に差をつけて座っている椅子の近くに置くという方法もあったと思うんですが、それもない。実際に「本当の学校で部長の会議をしたらみんな制服」にはなりますが、そのリアリティを追求して分かりやすさを犠牲にする。でも動きの演出はコメディでリアリティを殺す。このちぐはぐは何なのでしょうか。

もし「自分たちオリジナルの七人の部長」への強いこだわりがあったのだとしたら、「七人の部長」からコメディ要素を排除してシリアスな劇に仕立てあげることもできたんじゃないかと少し思ってしまいました。もちろん台詞や掛け合いの面白さは残しつつ、笑いを取らない、徹底的にリアリティに拘った演出をするとかですね。


とはいえ、他の「七人の部長」では「笑い」を取りに行くことに一生懸命になって終盤シーンがおざなりになることが多いのですが、これだけしっかりと伝わってくる終盤はめずらしかったと思います。よく出来てました。演劇部の下りあたりから明らかに気合入りまくりなのは「もう正直だなー(苦笑)」って。

あとこの台本、いかんせん賞味期限切れな気がします。「レンタルビデオ」とかネタとして出されるアニメの作品名とか、さすがにもう古すぎる。ちょっと昔の現代劇って一番演出しにくく、それでも間違えなく良い台本ですから本作を演じたい気持ちはわかるのですけども、その違和感を払拭できる演出にはなっていなかったんじゃないかと思いました。

その他、超有名台本ならではの難しさはあったと思いますが、そこに本気で挑戦した心意気は買いたいですね。上演おつかれさまでした。

桐生高校「Re; BOrN」

  • 作:武島美智子・桐生高校演劇部(顧問・生徒創作)
  • 演出:深田 遼

あらすじ・概要

高校卒業から10年。ある日、宮本に呼びだされた3人の同級生たち。そこには火文字という学校行事で使った布が置かれていて、それを処分してほしいのだと言う。その布には処分しようとすると呪われるという怪談があるのだった。

感想

幕があいて、サスの少女の開幕シーンが終わったあと、舞台が照らされました。上下(かみしも)、奥手前に4本の灰色の長方形オブジェが置かれていて、舞台中央に椅子や机が乱雑に置かれています。そして床にはなぜか開いたダンボールが。少し廃墟感のあるようななんとなく抽象的な舞台に映り「これはきっと抽象劇でも見せてくれるんだろうな」と期待したら、実際は現実劇でした。もう少し現実っぽい装置は作れなかったのでしょうか(机が倒れてないだけでもよかったのですけども)。

この劇は「火文字」という桐生高校の文化祭の後夜祭などで実際に行われる行事を題材にしています。その説明なのか、何度か写真だけぱっとプロジェクター投影されます。いや、欲しいのはそういう説明じゃなくて……。もちろん説明台詞でこれこれこうなんてやられた時には白けますが、その時の様子を会話で間接的にもうちょっと説明してほしかったかな。

演技は概ね安定していて、全体的には安心して観ることができました。ただ役者さんによって発声が悪く、少し聞き取りにくい台詞があったり、リアクション(演技)がやや弱いところもありました。金子はキャサリンだっけ、演技や発声もあるのか結構リアリティのある女装キャラで面白かった。

気になったところを箇条書きに。

  • 冒頭サスで少女が語るシーン。サスが完全に消える前に少女(いぶき)が動いてしまった。
  • 机を使って全員が倒れるシーンの前に、机の上に置いてあったオムライスを大して意味もなく片付けたのでこれから机でも倒すんだろうなってことが見えてしまった。台詞にしないで、進行と関係ない人物が無言で(その人物の判断として)片付ければよかったのでは?
  • 回想シーンの挟み方やタイミング(その情報が必要になる直前)がいちいち説明的で、特にプロジェクターで動画(縄跳びシーン)を使ったシーンなどは全く必要性が分からなかった。
  • かと思えば、サクラの枝を出す前に春ということを感じさせる配慮が少し足りないし、火文字に対する間接表現の説明も少し足りない。フリが足りないから唐突な印象を与えてしまう。
  • そういう意味で最もフリが足らなかったのは「宮本=幽霊」の設定。「実在したと思ったら幽霊でした」は高校演劇でよく使われる設定ではありますが、あそこまで普通に交流してた人が幽霊だとこじつけ感が出てしまう。
  • 舞台上のダンボールがずっと気になっていたのですが、布を燃やすシーンで使う照明のケーブルを隠すためのものらしい。机を倒した時に床を傷つけないために敷いたそうです。何に使うんだろう、何の意味があるんだろうとずっと思っていましたので不自然です。劇で使用しない「特異なもの」を舞台中に置くのはよくありません。
  • 燃やすのに使用した小道具がそもそも何なのかよくわからないのですが、最初から置いておけばよかったんじゃないでしょうか。
  • どうして布を燃やすのに、布よりも燃えにくい薪が必要なのかよくわかりませんでした。

中でも観ていてもっとも気になったことはここはどこですか?

  • 学校の
  • 屋外ではなく
  • 乱雑に机が置かれていて
  • 学校行事で使った布が10年保管されていて
  • 校庭で行われた火文字の行事を眺めることができて
  • 物を燃やすことができる場所

……ほんとにどこ? そんな場所さっぱり検討が付きません。頂いた情報によると、体育館が2階建の2階になっていて1階部分が屋外(吹き抜け)ということらしい。地方の大手電気店で1階が駐車場とかでよく見かける構造(参考図)。謎の灰色オブジェはコンクリート柱かな。全く伝わってません(苦笑)。抽象劇ではなく現実を舞台にした劇ならば「どこで」という情報はかなり重要です。舞台で今まさに起こっている状況を飲み込めないのです。


全体として、声はよく聞こえるし、演技も安心感があるし、台本に大きな欠陥もないし、観ていて面白いし、良い要素がたくさんあるのですが、致命的ではない細かい配慮不足が非常に多く積み重なってしまったなという印象を受けました。特に、演者と観客の情報の格差、知識の差に対する配慮不足が目立ちました。

「何も知らない観客がこの舞台を見た時どう感じるだろうか?」という客観視。演出面では絶対に欠かすことのできない配慮が不足したと感じました。

色々言ってしまいましたが、オリジナルの創作脚本できちんとまとめ上げ、しかも楽しめる上演したことはとても素敵だと思います。上演おつかれさまでした。

高崎健康福祉大学高崎高校「パレード旅団」

  • 作:鴻上 尚史(既成)
  • 潤色:健大高崎高校演劇部
  • 演出:(表記なし)

あらすじ・概要

かつない強風の台風によって翻弄される7人の一家と、一家の中にあるちょっとすれ違ったお互いの関係。台風により一家はついに家ごと流され、絶体絶命の危機。しかし、そのとき話されたのは家族についてのことだった。

感想

パレード旅団で検索すると色々出てきますので、そこそこ有名な台本みたいですね。

この舞台は背景のホリゾント幕に効果を表示して台風を表現するシーンと、ちゃぶ台を持ってきて家族のシーン。この2つで進行していきました。

体を目一杯使って、楽しそうに表現していたなと感じる上演で、ゆかいな家族なんだなということが伝わってきます。途中、水が家の中に入ってきたシーンで、「H2O 水 ウォーター」と書かれた水色の幕を見せたのは特に面白かった。

気になった点を箇条書きにします。

  • 何を言っているのかわからない
    • 目一杯声を張っているのできんきんして、ほとんどの役者が何を言っているのか分からないのです。よく聞いていると、お腹から声が出てなくて喉で発声してるんですよね。「発声の基礎練習が圧倒的に足りてない」→「声が聞こえない」→「声を張る」ということなんでしょうが、それは誤魔化しです。聞き取れれば相当面白かったんじゃないかなと思うので、非常にもったいない。
    • そして多分60分用に作られた台本ではないので、かなり早口になり、これがまた聞き取りにくさに輪をかけています。もっとシーンを削って絞っていくべきだったでしょう。これだと単なる台詞の言い合いであって、演技・リアクションになってない。
  • 家族の中にポチ(犬)が入っているのですが、それが舞台からは全く伝わってこない。
    • 途中でポチって呼ばれて「あぁ犬っていう設定なんだな」ということは分かりますが、その設定を飲み込んだ後でも犬らしさが全く伝わってこない。しぐさ、見た目(衣装)、動き方。いくらでも表現する方法はあったと思います。そこが伝わらないと、ポチに関するシーンの魅力が半分以上失われてしまいます。
  • 台風の中という印象がとても薄い
    • ガラス(瓦?)の割れた音がしたとき「泥棒でも入った?」「近所の子供が石でも投げた?」という印象がありました。舞台を観ていても台風の中と思えないのです。かなり重要な設定なのに、そこを蔑ろにしてはいけないと思います。定期的に、タイミングを見て風音を流すとかが妥当だと思うんですが、この上演だと早口でしゃべり続けてるのでそれも難しく。そもそも、家にダメージ=割れる音というのは安直ですし、他の効果音の使い方も含め(使ってる音源の若干の不適切さも含めて)いちいち全部説明的なのも気になりました。
  • 停電したはずなのに明るい
    • 停電したはずなのに、ちょっとしたら急に明るくなってああ電気回復したんだと観客は思うわけですよ。ずっと薄暗いのが見づらいとしても最初と同じレベルで明るくしちゃダメですし、明るくするにしても気付かれないように徐々に光量を増やさないとダメです。そういう雑な照明処理をするからますます台風や家が流されている危機感・臨場感を失っています。

台風という目前の危機と、家族の関係を描くことが特に重要な台本なのですが、それには色々と足りなかったかなと感じました。台本も色々と突っ込みどころはありますが、「家族」を「役割」とは何かという側面から問いかける面白い台本を選んできたなと思います。

とても楽しそう力いっぱい演じていることが伝わってきて、それだけでも微笑ましかったです。上演おつかれさまでした。

桐生南高校「ファミコン!」

  • 作:栗田 綾菜(顧問創作)
  • 演出:齋藤 玲也
  • 創作脚本賞

あらすじ・概要

3兄弟と父と祖母の5人家族。姉は大学生となり家を出て行き、やがて認知症が進んでいく祖母。その中で、家族のために頑張る高校生つぐみは何を思うのだろうか。

感想

広いステージにちゃぶ台と上手にテレビを置いて、奥に板と少し高くなった場所に何やら荷物がある舞台でした。何かと思ったら、奥の高くなったのは2階の子供部屋だったらしい。

  • 役者がそこに行くまで部屋と分からなかった。
  • その場は暗くて演技に適さなかった。奥の子供部屋にスポットがあたっているのに、手前の居間(ステージ)のほうが明るいことがあった。

演劇の文法として、一番明るいところが今お話が進んでいる場所なので違和感を感じました。ピンスポを使うなり何か工夫できなかったのかな。あと手前と奥の出入り口に、白いのれんがかかっているのだけど、のれんの固定位置が8尺(天井の位置)なので違和感があった。人員や予算の関係で舞台装置にどの学校も凝れるわけでなはないのですが、のれんの位置はどうにでも出来たはずなのでちょっともったいなかったです。

子供部屋、そこまで重要な役割はしていなかったので、少し工夫すればそもそも用意しなくても作れれたのではないでしょうか。

台本について

TV的な台本という印象が強かった。

  • 優太とおじいちゃんのエピソードシーンや、その挿入タイミング、全体で担う役割があまりに説明的
  • TVのニュースによって情報を与えるのは説明的。またその台詞も嘘っぽい。
  • しかもそのニュース以降に急に認知症が進んだ。

認知症の症状で料理の手順を忘れるのってかなり症状が進んでいる状況だと思うのですが、急にそこに到達したよう観客には映ります。このことによって、おばあちゃんの認知症という出来事があからさまに配置されてる印象を与えます。役者の演技力に関わらず説得力を失うのです。

優太とおじいちゃんのシーンはまるごと要らないんじゃないかと思います。

終盤の公園はとてもいいシーンなのですが、そこまで公園もホームレスも一度も登場しないので説得力が弱いのです。取ってつけた印象が拭えません。

エピソードの説得力というのは適切な前フリによって生まれます。そして何事も説明し過ぎは格好悪いのです。ストーリーは面白いと思うのですが、それを台本にする段階でうまく消化しきれなかった印象があります。台本執筆は慣れもありますので、最初からうまく作れる人は少ないものの、前フリがうまく処理できればいい線行ったと思いますのでもったいないと感じました。

演技・演出について

わかりやすく、人物立てもしっかりした舞台だったと思うのですが、リアクションが甘かったかなという印象がありました。「台詞」に対する「台詞の反応」が甘かったように、次に何言われるか分かってて準備してた印象がありました。

みんな頑張ってたのがよく伝わってきましたが、つぐみ役の方は主役だけあって中でもかなり頑張ってたと思います。一番の脇役のおばあちゃん。テンポの遅さはよく出てたと思うんですけども、人物造形が少しステレオタイプだったかなと感じました。おばあちゃんだって認知症の自覚はありつつ、色々と想うところはあったんじゃないかな。そういう部分はあまり伝わってこなかった。

また、つぐみが耳を塞ぐといったような演技は気になりました。本当にそんなことします? 耳を塞ぐというのは、聞きたくないという記号であって演技ではないんですよ。他にもそういった記号的表示がいくつか散見されました。


さて最後にBGMのお話です。ほとんどゲームのBGM、しかもマリオの音などを結構長く使ってタイトルのファミコンに引っ掛けていました。でも実は「ファミコン」ってそういう意味ではないんですよというオチになっています。これについては一言だけ触れておきます。

「たったそれだけのために舞台のムードをすべてぶち壊すようなBGMを使ったなんてもったいない」

まとめ

本当に頑張って舞台を作りこんでいて、とても分かりやすく、お話も十分に使わってきました。上演おつかれさまでした。

高崎商科大学附属高校「H31」

  • 作・演出:荻野 葵平(生徒創作)

あらすじ・概要

古びた民家に住み込む小説家の高杉のところに、担当編集者がやってきた。原稿はぜんぜん進んでないという。

そこにやってくる近所のおばちゃんたち、生徒たち。みんながわいわいしているところへ……。

感想

幕上がって、大掛かりな装置で古民家風の縁側のある部屋がありました。すごい気合の入った畳部屋にまず感心。作・演出ってことで結構期待してたんですよ。庭にある軽トラックもよくできていました。

装置でひとつだけ気になったのは舞台上手の縁側出入り口でした。そこに立てかけてある黒板が小さくて、見る位置によっては袖や裏手に抜ける役者の姿が見えてしまった。ちゃんと見えてることは意識して動いてたので、そこまで気にはならなかったけども勿体なく感じてしまいました。

演技と上演、素晴らしかったと思います。全てのシーンの動きもほぼ隙無く作りこまれていて、リアクションが本当によくできている。役者が次のアクションを準備してない素晴らしさ。ここまで作るのは大変だと思うのですが、本当によく練習したなと感じます。ただシリアスシーンで、お通夜のようにうつむいてたのはもったいなかったかな。

台本について

前半はコメディで、よくこれだけの掛け合いを作りんできたなと本当に感服しました。そしてコメディで始まったお話は、やがてこの町から立ち退くかどうかという話題に流れていきます。この流れも前フリを使ってうまく処理しています。生徒創作台本でこのレベルは本当に久しぶりに見ました。

それだけに惜しいと感じてしまう部分があります。この台本では、実在する「八ッ場ダム」を題材として、そのダムに沈む村の人々の苦悩を最終的には描いていくのですが、そこでいくつか気になってしまいました。

実在の「八ッ場ダム」という固有名詞を出す必要があったのか?

あえて出すという決断をしたことも織り込んだうえで、それでも八ッ場ダムという固有名詞を出す必要が本当にあったのかと言わざる得ません。誰がどう見ても「八ッ場ダム」の話をしていると分かっても、あえてその固有名詞を出さない(またはダムという言葉すら出さない)という選択があったのではないかと思うのです。

固有名詞、まして社会的にメジャーな出来事である「八ッ場ダム」の名称を出すことは、観ている人にそのイメージや想いを喚起してしまいます。その言葉を使うことによる効果はたしかにあるのですが、付随する「上演に対するマイナス要素」を完全に払拭できていたかというと疑問が残ってしまいます。

もっと単純に言えば、こういう重たい単語は「使ってしまうと陳腐」なのです。せっかく間接表現できる力量かあるのにもったいないと感じました。もしくは、固有名詞を出しても問題なかったと思わせるような更なる成熟がほしいです。

終盤に向けて話が発散してしまっている

物語というのは、一般的には「中盤までに広げた風呂敷を、最後に畳んで収束させる」ものです。しかしこの作品は、八ッ場ダムをめぐる人々、翻弄される人々を後半に描き、話を広げてからそのまま終わらせています。これも作者の意図した構成だとは思うのですが、投げっぱなし感が半端ないです。

しかも重用なこれらの翻弄される人々は少しも描いてない。独白に頼ったり、TV番組に頼った説明台詞だったりするだけで、「これだけ説明すれば分かるでしょ?」という構成なのです。TVや役所の人たちは嘘っぽすぎて、完全に物語を進めてる装置になってしまっている。一番大切なところを少しも描いていません

「町はバラバラよ。あんなに仲の良かったみんなはどこに行ったの!」

「あんたたちが(略)すべてをぶち壊したのよ」

このサイトでは繰り返し述べていることですが、人物の想いはエピソードで描かないと少しも伝わらないんです。

このレベルの台本が作れるなら、TVや独白や役所といった説明的なものをいくつか排除して、代わりに具体的なエピソードをひとつ描くことはできなかったんでしょうか、と思わずには居られません。

演技・演出について

本当に人物もよく読み込んでいたし、動きも綺麗だったし、演出はきちんと仕事してたと思います。

例えば「話してるのに声が聞こえない処理」というのはともすれば違和感を与えかねないのですが、ストレートに納得できる演出がされていました。ラストシーンは写真にように停止する演出でしたが、あそこまで完璧に止まるということは難しいのに「あれ写真でも見てるのかな?」と思ってしまうほどでした。綺麗な静止、素敵です。

良いものだけに色々言いたくなってしまいました。本当に面白い上演でした。おつかれさま。そういえば題名きっと何か意味あるんでしょうけど分からなかった(苦笑)*1

*1 : H31というのは八ッ場ダムの完成予定「平成31年」のことらしいです。情報提供ありがとうございます。