2005年度 群馬県大会

桐生南高校「通勤電車のドア越しに」

脚本:金居 達
翻案:青山 一也(顧問)
潤色:金居 達
演出:桐生南高校演劇部

あらすじ

発車間際の電車に飛び乗った黒木(OL)は、突然開いた反対側のドアに首を挟まれてしまった。電車も止まったまま。たまたま一緒に乗り合わせた後藤(女性部長)と井出(部下/女性)はドアを開けようとするが開きそうもない。そんな中やりとりされるコメディ。車掌を呼びに行く上司と部下、そこへ通りがかる小学生。やがてやってきた車掌は扉を開ける気が全くなく、自分の話をして去っていってしまう。やがて先ほどの小学生もやってきて……。

脚本について

脚本を書かれた金居達さんは(パンフレットと漢字は違いますがこちらが正しいようです)高校時代に県内で演劇をなさっていた方のようで、現在は劇団を主宰なさっているようです。またこの本は静岡の浜松海の星高等学校も上演しています。内容的には「コメディ+ちょっといいお話」という演劇のひとつの定型です。

主観的感想

昨年度の地区発表会から期待していた(想い入れの強い)桐生南ではありましたが、心苦しいながら正直なところ期待はずれだったと言わざるを得ません。なんと言っても致命的なのはメインの女性3人の声がよく聞き取れなかったところ。ホールが反響しやすいこともあるとは思いますが、通常でも聞き取りにくく、まして2人以上台詞がかぶると何を言っているのか全くわかりません。頑張って発声しているのはわかるのですが、(講評にあったとおり)そのせいもあって似たり寄ったりの声質になってしまい声の色がなかったのが一因かもしれません。

コメディの間や止めを意欲的に使っていて、この点だけでも大きく成長していると評価したいのですが、その一方でせっかく考えたコメディも声が聞き取りにくいことから内容の理解がワンテンポ遅れてしまい、笑い損なう=笑う要素を理解したときには先に進んでいて笑うに笑えないという事態に陥ってしまいました。とにかくハイテンションで笑わせっぱなしにしてやろう、という意気込み(方向性)は間違ってないと思うのですが(そうしてこそ成り立つ劇だと思います)、そこが失敗してまったせいで劇自体の印象が悪くなってしまったことは否めないと思います。

舞台装置は電車という大がかりなものをよく作り込んでいました。月夜もうまく(綺麗に)表現したなあという感じで好感を持ちました。一方で、装置をあれだけ作り込んだからこそ車輪が気になるという声も聞かれましたし、車両の空間が妙にだだ広く感じたりもしました。動作(アクション)の関係もあるのでしょうが、もう少し車両の見える部分を狭めてこぢんまりとさせてやるほうが、劇に味が出たように思われます(例えばそうすることでほかのお客が見えない部分に居るという演出も使えたと思います。それが必要かは別として)。

途中小学生が電車の前を通るのですが(見た目が見事な小学生っぷりでした)、そのとき通った場所は「駅のホーム」なのか「線路脇の道路」なのかよくわかりません。黒木は電車に乗り込んだあと首を挟まれたわけですから、そのまま駅に停車したまま動いてないと思われるのですがOLが乗り込むような駅が片側ホームの田舎駅……? というのもやや疑問が残り、その辺気にし始めると疑問だらけになってしまいます(完全にフォローするのは無理ですが)。途中、車掌がダンスをやってたという設定が出てくるのですが、その割にうまくなかったりするのも笑いのネタにするなどのフォローがほしかったところ。

【全体的に】

ラスト10分はお約束の心理劇で幕を閉じるわけですが、この辺も伏線不足。もっと前半から抑圧なり悩みなりの描写がほしかったところです(笑いに走りすぎ)。繰り返しになってしまいますが、声が聞き取りにくかったせいで演出意図をくみ取ることも(まして考察することも)難しくなっているように感じます。上演時間60分ギリギリ(またはオーバー?)で、去年もそうだったと思いますが若干詰め込み過ぎではないでしょうか。おそらく演技を付けていく段階で量が増える傾向にあるのでしょうから、脚本の段階で上演時間より少なめにしておけば、演出(演技の付け方)の幅も増えるように感じます。

と色々言いましたが、開かないドアが間違って開いたりしないかとハラハラしたもののきちんと表現されていましたし、笑わせどころはきちんと押さえていて去年と比べたらすごい成長です。よく頑張ったと思います。個人的なことですが、やはり地区大会を(桐生南だけでも)見に行くべきだったのかも知れません。ひとつだけ(生徒に)アドバイス。「こうしよう」「あうしよう」という前向きな思考だけでなく、時に「これでいいのか?」「何か足りなくないか?」と立ち止まって振り返ることも大切であると心に留めておきましょう。今後も期待しています。

審査員の講評

【担当】光瀬
  • 舞台装置を大変よく頑張りましたが、頑張ったところは目立ちます。今回の横長装置は一番目立たせなくてはいけない黒木が正面を向いていて目立っていなかった。装置は演劇のためにあるのにその役目を果たしていない。そのせいで、途中黒木の状態がエロいという話があったが観ている方には少しもエロくなかった。正面を向けずに斜めにしてはどうだったか。
  • 車掌の回想シーンでは(コメディなのだから)電車から飛び出してしまってもよかったのではないか。
  • ドアの開閉も、手で動かしているのが見えているのだから、暗転しないでそのままやってしまっても良かったのではないか。
  • ホールの特性もあるのでしょうけど、年代の近い3人の女子が同じように頑張った声を出してしまうと、声質が似てしまって聞き分けられない。例えばまき(編注:小学生役)が裏で話している声はまったく分からなかった。声の音色を出すようにした方がよい。
  • 車掌が早口で説明を言うときは、感情を入れないで「敢えて棒読みにする」という演出もあったのではないか。
  • 演技のテンポが一定で間の変化がない。もっと間やトーンやテンションなどに変化を付けないと単調になる。
  • せっかくギャグをやっているのですが「とりあえず触っておく」の「とりあえず」で登場人物の方が笑ってしまうと、観客は笑えなくなってしまう。
  • 黒木が母になったときの変化がない。職場の顔と母の顔というように劇中で人物像が変化する場合は目立つので、この劇の場合は「母になった黒木」というのを目立たせるとよかったのでは。
  • 扉(ドア)を開けようと力を入れるときのふんばる声で電車のアナウンスがかき消されるというシーンがあったが、実際には聞こえない部分のアナウンスを飛ばして(消して)いた。そうではなく、実際にアナウンスがかき消される方が(演劇としての)リアリティがある。本当に起こっている現象は演技していることよりも大変よく目立つので、そういう部分では本当に起こっているというリアリティを出すべき。
  • 扉を開けようとするとき、本当に力を入れているのがよく分かって、この点は良かった。
  • 途中、車掌の話と関連してダンスがあるが、どうせなら黒木が踊れないようなダンスにして、一人話に置いて行かれている構図を出す方がよかった。
  • 黒木が最後に謝る理由がよくわからなかった(観客に伝わってこなかった)。

新島学園高校「開運ラジオ」

脚本:平田 俊子
潤色:新島学園高校演劇部
演出:(表記なし)

あらすじ

突然現れたエレベータ、そこの乗り込む少女は「9825階」を指定した。エレベータ(ごっこ?)からおばあさん、そして子供たちところころ変わる情景の先には何があるのか。

脚本についての説明

市販の劇曲集に収録された脚本を使用しているようです。検索すると、結構多くの劇団で上演されています。どうやら、ラジオのチューニングのようにめまぐるしく変わる情景から何かを描き出す作品のようです。「ようです」というのは上演を見た限りでは伝わってきませんでしたということです。

主観的感想

桐南同様に、声が聞き取れない。エレベーターガール(別役ハルエ)、昼子、2人目のお婆さんが特に聞き取りにくく何を言っているのかわからない。全体的に仕上げて来ているにも関わらず致命傷です。新島は、昨年度末の公演から期待していたのですが、スタッフを見比べてみると大半が居なくなっている(=卒業?)と、つまりはそういうことのようです(引き続き居るのは3名のみ)。で、おまけに演出不在と……。

本は難しい本です。その代わり、きちんとやれば上位を狙えるそういう本だと思います。ということはそれ相応の意気込みがあった証拠であって、至らない点は当人(昨年度を知っている人たち)が一番よく分かっていると思いますが、絶対的に演技力不足、そして演出の欠如です。まず始まって野原のエレベーターという設定なのですが、パンフレットを読まない限り「野原」ということは全く伝わってきません。最初のエレベーターごっこも、本物のエレベーターが「ごっこ」という言葉とともに消失したのか、本当にエレベーターごっこだったのか分かりません。とにかくあれもこれも全部分かりません。台本を読んでいませんから推測になってしまいますが、この本は現実(リアリティ)と非現実(バーチャル)の微妙なライン(境界)を保たないと成り立たないように感じるのですが、だとすればその点(上演する側がきちんと)理解していたのか疑問です。

【全体的に】

台詞が聞こえないことに輪を掛けて演出的思考の欠如、そして難しい台本。当然の帰結として「何がやりたかったのか理解できない」ということになりました。舞台をみれば一生懸命頑張ったことはよく伝わってきましたし、情熱も分かります。だからそれだけに惜しいという思いが見ている側としてはやはりどうしても強くなってしまいます。

台本を潤色(アレンジ)するとき、舞台装置を作るとき、そして何より劇を作るときに「演出的」思考を絶対に忘れちゃだめです。これは本当に大切なことです(参考、昨年度の県大会全体的な感想)。ちょっとそこに気を付けるだけで、もの凄く見違えるのではないかとそんな風に感じました。

審査員の講評

【担当】石村
  • 舞台装置。花や生け垣のオブジェがパラパラと置いてあって、花も目立って、生け垣も目立ってという感じでしたが、全体としてオブジェの変化が欲しかった(編注:均一ではなくある程度狙ってアンバランスにした方がいい)。
  • エレベーターガールの動きが面白かった。
  • 観客を選ぶ象徴的な劇で、いかに観客を伝えるかということに挑戦していたと思う。
  • 言葉が次々と続いていくのだけど、伝わりにくかった。
  • いろいろと考えさせられる劇で、よく作っていたと思う。
【補足】光瀬
  • エレベーター内の壁を表現するのに途中パントマイム――正確には無いものをあるように見せるイリュージョンマイム――を使っていたが、これは言葉がなくても伝えるという演劇とは異質のスタイル。であるのに、本物のタオルが存在するといった混乱がある。他にも、ああいう(リアリティのある普通の)服装の人はそういうこと(パントマイム)などはしない。
  • 他の表現スタイルを取り入れるとき、ここまでは演劇のライン、ここまではパントマイムのラインというそういうボーダーをハッキリさせることが演出でありセンスだと思うが、そういう配所が足りなかった。(※)

※補足:表現のスタイルによって「文法」というものが存在します。例えば、演劇においては、明かりの外(スポットの外など)は例え目に見えていても「見えないもの」という観客と上演者側の(暗黙の)約束事がありますが、このような約束事を「文法」といいます。例えばミステリ小説において頻繁に殺人事件が起きて主人公達が巻き込まれることは文法のひとつであって観る側も読む側も納得しているために誰も疑問に思いません。この種の文法は表現媒体によって無数に存在します。複数の文法を取り混ぜる際に「文法がごちゃ混ぜになる」という弊害が生まれ、この部分の調整・配慮しないと「この場合はどっちの文法(常識)を持ってくるの?」といった類の混乱が起こります。この文は、それが問題だといっています。

伊勢崎工業高校「あの大鴉、さえも」

脚本:竹内 銃一郎
演出:當間 聡美(兼 主演)

※優秀賞(関東大会へ)

あらすじ

親方に頼まれ大きなガラス(大ガラス=大鴉)を届けようとする3人の独身者(男1+女2)。言われたとおり白い壁が沿ってみても行き止まり。もしかすると、壁の向こうに住人がガラスの受け取り人なのか。その住民は誰なのか。

脚本についての説明

昨年に引き続き(同じ人の)古い演劇の本(80年代)を持ってきたようです。上演を観たときは何を描いた台本か分からなかったのですが、審査員講評やネットで検索してみた限り、肉体労働の独身男3人が(ガラスの届け先である)壁の向こうに住む女性に夢想する演劇のようです。

主観的感想

県大会常連、昨年度最優秀賞の伊工はさすがに演技力や完成度がまるで違います。実に安定した「これが演劇だよね」という劇をみせてくれました。……だけではちょっと済ませられないかも。

3人で大きなガラス(透明)を持っている演技をするわけですが、実によく出来ていますが細部までみると大きさが微妙に変わっていたり(立てかけるとき)、持ち替えたとき赤い服を来た方の女性の左手が右手より高かったりしました(水平でないとおかしい)。また女性2名に比べて男の演技がいまいちパっとしない印象で、キャラ付けとしても弱く(人物作りがまだまだ足りない)、特に台詞が数回詰まったのはさすがにマズいと思います。その他、バケツの水をかけるシーンがあるのですが、そのSEがしょぼかったのは残念でした。

【全体的に】

あの伊工ですらここまで苦戦するか……というのが正直なところです。前回は確実に最優秀でしたが、今回は他にこのレベルの高校が居なかったから優秀賞という感じです。部員が少なくなって力のある人たちが抜けていってるんでしょうね(ちゃんと引き継がれることを祈るばかりですが、来年はやばいのかも)。

演出としても、台本を「ほぼそのままやってしまった」という感じで、そこから来た無理というものを庇いきれていません(あまり考慮されていません)。男を女に変更した分、別の要素を付け加えるとか、いっそ大胆に脚色して「設定を現代に置き換えてしまう」とか、そういう工夫をしても良いのかもしれません(注:これはオーバーな例えですが)。たしかに変更するリスクはありますが、逆に考えればこのままでは関東大会での入賞は厳しいでしょう(関東大会を見たことはありませんが)。

審査員の講評

【担当】原澤
  • この台本を選び部活動として完成度を高めていったということを素直に評価したい。
  • 役者各々がソロでも引きつけるだけの力があり、それが3人になった掛け合いでもよく出来ていた。
  • 本来は独身男3人が壁の向こうの独身女性3人を夢想する劇だと思う。キャストを2人女性に変更していたが、それでも成り立っていたと思う。
  • 全体的に会話劇であって60分観客を引きつけなければならないのだけど、まだまだ努力が必要だと思う。
  • BGMが何カ所か不要、または違和感を感じた。
  • 難解な台本によくチャレンジしてここまで仕上げたことを素直に評価したい。

市立伊勢崎高校「HOW ABOUT YOU?」

脚本:鶴岡 静・豊島 康帆(生徒創作)
演出:島田 亜悠子

あらすじ

フューチャーというバンドのチャットで知り合った3人は、ある日一緒にライブを見に行く約束をする。そして仲良くなるのだが、一方でウルハ(麗波/女)はユイガ(唯我/男)やキラ(綺羅/男)の腕にある、リストカットの傷痕に気づく。それを知って悩むウルハだったが、やがて「二人を救いたい」と思い動き始めるが、なかなか上手くいかず……。

主観的感想

【脚本について】

始まってまず「もう4時半かー」「掲示板に書き込みないかなー」という説明台詞。この時点で劇曲を書き慣れていないことは明かですが、それでもストーリーの仕立て方としてはよくできた方で、ウルハ、ユイガ、キラという人物配置もうまく考えられていました。チャットのオフというよくある設定をきちんと料理していたと思います。

とまあその辺は良いのですが……。結局のところ、リストカットという悩みや心の問題、心理劇を書く上ではまだまだ考察不足です。描きたいことや気持ちはよくわかるのですが、そんなに簡単に自分の気持ちを打ち明けたり、「誰かを救う」ってことがそんなに簡単ではないことを描き切れていない。つまりはその辺の心理劇は全部嘘っぽい。もちろん、ある時に長々と気持ちを独白するような「よくある失敗」をやっていなかっただけ大したものなのですが、だけどより一層の配慮をすべきだったと思います。(参考:創作脚本を書かれる方へ

【脚本以外】

ライブ帰りのシーンがやたら暗すぎて、登場人物の顔がよく見えません。ウルハの家のシーンでも同様です。演劇において暗いことを演出するとき、本当に(そこまで)暗くする必要は全くありません。暗いということを観客が納得してくれればいいのですから、人物(役者)の姿が見えなくなる程暗くしてしまうのは失敗だと思われます。途中、スピーカーから友人の声が聞こえてくるというシーンがあるのですが、友人役の声と父親役の声の演技をもうちょっとどうにかしましょう。

途中ユイガの心情を述べる(リスカの理由を言う)シーンがあるのですが、あまりにあっさり流すために真に迫りません(一方で陳腐にもならないのですが)。全体としてシナリオと舞台、両方ともに作り込みも不足だと思います。

【全体的に】

描き方がとても軽いんですよね。まず人物をユイガならユイガにしぼって、その心の問題の中でもたった一点にしぼって、その悲痛さ、ウルハがいかに頑張っても全部否定されてしまうような拒絶などの要素を挟みつつ、(上演)60分かけて大きな山をひとつ登りかけるぐらいの感じにしないと到底説得力というべきものは生まれないと思います。

審査員の講評

【担当】光瀬
  • この3人はヒューチャーというバンドのファンということでつながっているが、その感心のバンドであるフューチャーがよくわからない。話にしか出てこないので実感が沸かないのだけど、演劇なのだから何かしら本物として見せてほしい。
  • ネットで知り合った人間同士がいきなり自己紹介で本名をいうだろうか? もっと本名というものを大切に扱うとよかったのではないだろうか(編注:本名を教え合うというシーン自体を物語の見せ場の要素として持ってくることも可能だったと思う)。
  • 2幕目のライブ帰りのシーンでは、「ライブ帰り」であるという熱狂感や興奮感が見られない。本当にライブを見てきた後なら、そういう熱気というものが残っているはず。
  • ライブの熱狂とリスカのギャップが良いところだと思うのだけど、そこの見せ方に問題があるように感じる。
  • 3人の関係について、いっそのこと(例えば)リスカの掲示板の知り合いで、たまたま同じヒューチャーのバンドに行っていてばったり出会う、とかの方が面白味があったかもしれない。
  • リスカをするほど追いつめられた人が(現実にはあり得ると思うが)ライブに行くのか? という疑問が残る(編注:物語の見せ方としての説得力、確率の積み重ねとしてのリアリティを言っているものと思われます)。
  • この演劇を観てリスカの人がはたして納得するだろうか、疑問が残る。劇中、ウルハが本で調べましたということで理解しようとしているが、本やネットで調べただけでは本当に理解したいのか疑問が残る。(ちょっと調べただけで)理解しようと言うこと自体が偽善的であるとすら言えるのではないか。その辺、台本を書く人はもっと突き詰めてほしい(編注:他人の心の問題を解決することはこんなに簡単ではないので、そのことをよく考慮しないと本当に悩んでいる人間にとってはバカにされたようにすら感じるものだと思います)。
  • 人が他人のためにした行為というのは人か一番傷つきます。その意味で、友人の声での追いつめ方はうまいなと感じた。台詞からだけでなく、もっとふくらませるとよかったと思う。
  • 基本的に「ドラマ」というのは、Aが○○したい、Bが××したいと思い対立することで生まれて、最終的にどちらかが勝ったり諦めたりすることで決着する。ウルハがユイガにリスカのことをたずねたとき、それをはぐらかすユイガという構図はまさに「聞きたい」と「話したくない」という対立であり盛り上がりやすい。しかし、せっかくの見せ場なのに、実際はあっさり話してしまっていた。なかなか聞くことのできない歯がゆさが出せるともっとよかったと思う。
  • 舞台装置は公園(?)や家とリアリティのあるものを用意してきたが、ネットというバーチャールな背景があるのだから、リアリティがない方がよかったかもしれない。