桐生南高校「ファミコン!」

  • 作:栗田 綾菜(顧問創作)
  • 演出:齋藤 玲也
  • 創作脚本賞

あらすじ・概要

3兄弟と父と祖母の5人家族。姉は大学生となり家を出て行き、やがて認知症が進んでいく祖母。その中で、家族のために頑張る高校生つぐみは何を思うのだろうか。

感想

広いステージにちゃぶ台と上手にテレビを置いて、奥に板と少し高くなった場所に何やら荷物がある舞台でした。何かと思ったら、奥の高くなったのは2階の子供部屋だったらしい。

  • 役者がそこに行くまで部屋と分からなかった。
  • その場は暗くて演技に適さなかった。奥の子供部屋にスポットがあたっているのに、手前の居間(ステージ)のほうが明るいことがあった。

演劇の文法として、一番明るいところが今お話が進んでいる場所なので違和感を感じました。ピンスポを使うなり何か工夫できなかったのかな。あと手前と奥の出入り口に、白いのれんがかかっているのだけど、のれんの固定位置が8尺(天井の位置)なので違和感があった。人員や予算の関係で舞台装置にどの学校も凝れるわけでなはないのですが、のれんの位置はどうにでも出来たはずなのでちょっともったいなかったです。

子供部屋、そこまで重要な役割はしていなかったので、少し工夫すればそもそも用意しなくても作れれたのではないでしょうか。

台本について

TV的な台本という印象が強かった。

  • 優太とおじいちゃんのエピソードシーンや、その挿入タイミング、全体で担う役割があまりに説明的
  • TVのニュースによって情報を与えるのは説明的。またその台詞も嘘っぽい。
  • しかもそのニュース以降に急に認知症が進んだ。

認知症の症状で料理の手順を忘れるのってかなり症状が進んでいる状況だと思うのですが、急にそこに到達したよう観客には映ります。このことによって、おばあちゃんの認知症という出来事があからさまに配置されてる印象を与えます。役者の演技力に関わらず説得力を失うのです。

優太とおじいちゃんのシーンはまるごと要らないんじゃないかと思います。

終盤の公園はとてもいいシーンなのですが、そこまで公園もホームレスも一度も登場しないので説得力が弱いのです。取ってつけた印象が拭えません。

エピソードの説得力というのは適切な前フリによって生まれます。そして何事も説明し過ぎは格好悪いのです。ストーリーは面白いと思うのですが、それを台本にする段階でうまく消化しきれなかった印象があります。台本執筆は慣れもありますので、最初からうまく作れる人は少ないものの、前フリがうまく処理できればいい線行ったと思いますのでもったいないと感じました。

演技・演出について

わかりやすく、人物立てもしっかりした舞台だったと思うのですが、リアクションが甘かったかなという印象がありました。「台詞」に対する「台詞の反応」が甘かったように、次に何言われるか分かってて準備してた印象がありました。

みんな頑張ってたのがよく伝わってきましたが、つぐみ役の方は主役だけあって中でもかなり頑張ってたと思います。一番の脇役のおばあちゃん。テンポの遅さはよく出てたと思うんですけども、人物造形が少しステレオタイプだったかなと感じました。おばあちゃんだって認知症の自覚はありつつ、色々と想うところはあったんじゃないかな。そういう部分はあまり伝わってこなかった。

また、つぐみが耳を塞ぐといったような演技は気になりました。本当にそんなことします? 耳を塞ぐというのは、聞きたくないという記号であって演技ではないんですよ。他にもそういった記号的表示がいくつか散見されました。


さて最後にBGMのお話です。ほとんどゲームのBGM、しかもマリオの音などを結構長く使ってタイトルのファミコンに引っ掛けていました。でも実は「ファミコン」ってそういう意味ではないんですよというオチになっています。これについては一言だけ触れておきます。

「たったそれだけのために舞台のムードをすべてぶち壊すようなBGMを使ったなんてもったいない」

まとめ

本当に頑張って舞台を作りこんでいて、とても分かりやすく、お話も十分に使わってきました。上演おつかれさまでした。

高崎商科大学附属高校「H31」

  • 作・演出:荻野 葵平(生徒創作)

あらすじ・概要

古びた民家に住み込む小説家の高杉のところに、担当編集者がやってきた。原稿はぜんぜん進んでないという。

そこにやってくる近所のおばちゃんたち、生徒たち。みんながわいわいしているところへ……。

感想

幕上がって、大掛かりな装置で古民家風の縁側のある部屋がありました。すごい気合の入った畳部屋にまず感心。作・演出ってことで結構期待してたんですよ。庭にある軽トラックもよくできていました。

装置でひとつだけ気になったのは舞台上手の縁側出入り口でした。そこに立てかけてある黒板が小さくて、見る位置によっては袖や裏手に抜ける役者の姿が見えてしまった。ちゃんと見えてることは意識して動いてたので、そこまで気にはならなかったけども勿体なく感じてしまいました。

演技と上演、素晴らしかったと思います。全てのシーンの動きもほぼ隙無く作りこまれていて、リアクションが本当によくできている。役者が次のアクションを準備してない素晴らしさ。ここまで作るのは大変だと思うのですが、本当によく練習したなと感じます。ただシリアスシーンで、お通夜のようにうつむいてたのはもったいなかったかな。

台本について

前半はコメディで、よくこれだけの掛け合いを作りんできたなと本当に感服しました。そしてコメディで始まったお話は、やがてこの町から立ち退くかどうかという話題に流れていきます。この流れも前フリを使ってうまく処理しています。生徒創作台本でこのレベルは本当に久しぶりに見ました。

それだけに惜しいと感じてしまう部分があります。この台本では、実在する「八ッ場ダム」を題材として、そのダムに沈む村の人々の苦悩を最終的には描いていくのですが、そこでいくつか気になってしまいました。

実在の「八ッ場ダム」という固有名詞を出す必要があったのか?

あえて出すという決断をしたことも織り込んだうえで、それでも八ッ場ダムという固有名詞を出す必要が本当にあったのかと言わざる得ません。誰がどう見ても「八ッ場ダム」の話をしていると分かっても、あえてその固有名詞を出さない(またはダムという言葉すら出さない)という選択があったのではないかと思うのです。

固有名詞、まして社会的にメジャーな出来事である「八ッ場ダム」の名称を出すことは、観ている人にそのイメージや想いを喚起してしまいます。その言葉を使うことによる効果はたしかにあるのですが、付随する「上演に対するマイナス要素」を完全に払拭できていたかというと疑問が残ってしまいます。

もっと単純に言えば、こういう重たい単語は「使ってしまうと陳腐」なのです。せっかく間接表現できる力量かあるのにもったいないと感じました。もしくは、固有名詞を出しても問題なかったと思わせるような更なる成熟がほしいです。

終盤に向けて話が発散してしまっている

物語というのは、一般的には「中盤までに広げた風呂敷を、最後に畳んで収束させる」ものです。しかしこの作品は、八ッ場ダムをめぐる人々、翻弄される人々を後半に描き、話を広げてからそのまま終わらせています。これも作者の意図した構成だとは思うのですが、投げっぱなし感が半端ないです。

しかも重用なこれらの翻弄される人々は少しも描いてない。独白に頼ったり、TV番組に頼った説明台詞だったりするだけで、「これだけ説明すれば分かるでしょ?」という構成なのです。TVや役所の人たちは嘘っぽすぎて、完全に物語を進めてる装置になってしまっている。一番大切なところを少しも描いていません

「町はバラバラよ。あんなに仲の良かったみんなはどこに行ったの!」

「あんたたちが(略)すべてをぶち壊したのよ」

このサイトでは繰り返し述べていることですが、人物の想いはエピソードで描かないと少しも伝わらないんです。

このレベルの台本が作れるなら、TVや独白や役所といった説明的なものをいくつか排除して、代わりに具体的なエピソードをひとつ描くことはできなかったんでしょうか、と思わずには居られません。

演技・演出について

本当に人物もよく読み込んでいたし、動きも綺麗だったし、演出はきちんと仕事してたと思います。

例えば「話してるのに声が聞こえない処理」というのはともすれば違和感を与えかねないのですが、ストレートに納得できる演出がされていました。ラストシーンは写真にように停止する演出でしたが、あそこまで完璧に止まるということは難しいのに「あれ写真でも見てるのかな?」と思ってしまうほどでした。綺麗な静止、素敵です。

良いものだけに色々言いたくなってしまいました。本当に面白い上演でした。おつかれさま。そういえば題名きっと何か意味あるんでしょうけど分からなかった(苦笑)*1

*1 : H31というのは八ッ場ダムの完成予定「平成31年」のことらしいです。情報提供ありがとうございます。