BGMの使い方について

最近は減ってきましたが、稀に全編を通してBGMを使いまくる上演というのを目にします。TVドラマや映画のようにBGMを使ってムードを盛り上げるという手法は、演劇には馴染みません。

TVや映画、演劇、小説などあらゆる媒体には『文法』という概念があります。映像作品では細かいシーンを繋いで物語りを作るのが『文法』であるし、逆に演劇では舞台をなるべく固定してシーンを切らないのが『文法』です。この点について、平田オリザ著「演劇入門」P64に次のような記述があります。

高校演劇は、一作品六十分と時間が決まっているのだが、その制約の中で、暗転が十数回などという作品がしばしば見受けられる。(中略)彼/彼女らにとって、ドラマを創る見本とは、すなわち、トレンディドラマやマンガのことであり、それを模倣してしまうのは当然のことだろう。

BGMの問題も根は一緒であるように感じます。

映像作品の場合、映像だけでは質感や臨場感を出しにくいので音楽を多用してムードを盛り上げるということをよくやります。しかし演劇は目の前で起こっているという「他の媒体では絶対に実現不可能なリアリティ」が売りなのですから、そこを安易にBGMに頼ってしまうと演劇の最も演劇らしい部分を放棄してしまうことになりませんでしょうか。演劇である意味すらなくなってしまいませんでしょうか?

誤解してほしくないのは、BGMを使うなというわけではなく、慎重に使ってほしいというお話です。BGMはあくまで補助的に使う。情景や感情をBGMで説明しない。少し考えてみてください。

演劇チェックメモ

過去の講評や感想の中で役立ちそうなことを点検メモ風にまとめておきます。汎用性が高そうなもの、繰り返し指摘されるものを中心に。

  • ひとつの台詞中でのイントネーションの変化に注意。「ぼくは高崎駅に行く」という台詞で、「誰が駅に行くの?」と訊かれれば「ぼくは高崎駅に行く」と『ぼく』が強調されるし、「どこに行くの?」と訊かれれば「ぼくが高崎駅に行く」と場所が強調される。日常会話ではみんなこれを自然に行なっている。(2011年県大会講評より)
  • 台詞の距離感。例えば1m離れてる人に話すのと、3m、5m離れている人に話すのでは声の大きさや発声の距離感が違う。すべての台詞で5m向こうに話しかけるような大声を出すのではなく、距離感の感じられる台詞にしてほしい。(2011年県大会講評ほかより)
  • 演じようとしないで。台詞に無理に感情を込めようとしないで。心を作れば動きや台詞に自然に出てくる。心ができてないから、それを誤魔化すために態度や感情をむりやりにだそうとしていまう。(2011年県大会講評より)
  • 変な登場人物が変なことをしてもそれは普通のことなので面白くない。普通だと思われてる人が変なことをすれば面白い。観客の予想を少しだけ裏切るから面白い。(こちらのブログより
  • 心の距離は、登場人物の物理的な距離に現れます。実際、好きな人には近づきたいし(照れてなければ)、嫌いな人には近寄りたくないでしょう?
  • 体も使って表現しよう。台詞だけで演技しない。台詞だけで伝えようとするから嘘っぽくなるし、真に迫らない。
  • 弱い台詞が重用。強く言うだけでなく、弱く言うことでより台詞を際だたせることもできる。強くいうことだけが感情表現の手段ではない。(多数の講評)
  • どこを弱めようと考える。台詞や動作にメリハリを付けたければ「どこを強めよう」ではなく「どこを弱めよう(動作なら止めよう)」と考えると良い。
  • リアクションを大切に。アクション(台詞を言ったり行動したり)ではなくリアクション(台詞や行動に対する反応)。相手の言葉をうけてどう心が動いてどう反応するかが演技になる。(多数の講評)
  • 軽々しく銃を持つ上演が多すぎます。舞台ではプラスチック製のおもちゃ(模造銃)を使うことが多いと思いますが、通常は金属製でもっとずっと重たいのです。重そうに持つのは結構難しいので重りを仕込むといいと思います。(多数の感想)
  • 型で演技しない。「悲しい演技なので俯く」「怯える演技なので縮こまる」のではなく、登場人物の気持ちを作って本心から怯えた結果としての動作でなければ嘘っぽくなるだけ。

演技以外

  • BGMで感情を説明してはならない。TVドラマと演劇は文法が違う。
  • 壁の高さは8尺で。舞台装置で壁を作るときは6尺パネルだけでなく、最低でも更に1.5尺(45cm)は高くしないと壁(部屋)にはならない。(2004年県大会講評より)
  • 何も考えずに広いステージを全部使うのではなく、その舞台に「適切な広さ」の劇空間を設定する。パネルで部屋が作れなくても照明を中央部に限ったり、左右から幕を寄せて狭めることはできる。
    • 広い空間は人物と人物の距離を広め、心の距離も疎にみせてしまう。狭い空間は人物と人物の距離を狭め、心の距離も密に見せることもできる。
  • (単)サスを使うときは、意味もなく顔が影にならないように注意する。立ち位置の工夫でどうにもならないなら、前サス(前明かり)を併用したり、横からのサイドスポットライト(SS)を当てるなどの工夫を。

はじめての方へ

2023/01/22

このサイトでは主に群馬県の高校演劇の感想を掲載しています。

感想は上演校の生徒に向けて書いたものですが、どの高校の上演にも同じような感想を抱くことがあります。というのも、どの学校もある程度似通った特徴や問題を持っているからです。「私の高校じゃないから関係ないや」ではなく、他のものも色々読んでみてほしいなと思っています。何かしら得るものはある……といいな。

感想は概ね「この上演がより良くなるためにはどうしたら良いだろうか?」という趣旨になっています。その上で、仮に感想を受け取った上演校の生徒に届いたとき過剰に傷つくことがないようなるべく注意して書いてはいますが、趣旨が趣旨であるだけにどうしてもキツい表現になってしまい部分があります。決して貶したいわけではないので、容赦してくれたら嬉しいです。

個人の感想が正しくないのはよくあることです。様々な感想をどう取捨選択し、そこから何を見出すのか。それが例え講評であっても納得できなければ「コイツ、私たちの公演を何も理解してない」と思って問題ないのです。そのような検討材料のひとつになれたらよいと願っています。

ひとつだけ付け加えるなら、顧問の先生が過剰に台本選定や演出を行うことには否定的な立場を取っています。顧問創作脚本には肯定的です(強制でなければ)。

表現と感想のポリシー

まず表現は自由です(悪意がなければ)。何を表現しても、どうやって表現しても、それは表現者の自由です。だから、みなさんが上演した演劇は誰からも文句を言われるものではありません。しかし、もうひとつ大切なことがあります。表現を観たものには、表現に自由があるのと全く同じように、(その表現から)感じたことを自由に述べる権利があります。なぜなら、感想を述べることも表現に他ならないからです。これが、表現者と受け手の大原則です。

そうはいっても(高校教育の中における)高校演劇という側面もあり、そこは感想を書く上でも大変に気を遣うことです。

けれども、みなさんが関わっている『表現』という世界は、『表現の自由』と『感想の自由』(批評の自由)よって支えられた世界、その2つがあって初めて成り立つ世界であるということだけは忘れてほしくない。表現はどこにでもあります。テレビも漫画も小説もアニメも音楽もみんな表現です。それどころか、人前で話をすことも、面接で答えることも、サイトを作ることも、ツイッターやSNSでつぶやくこともみんな表現なのです。

そういう表現の世界に居るのだということを片鱗でいいから感じてほしいという想いも少しだけあります。