伊勢崎清明高校「幻私痛」

作:小野里 康則(顧問創作)
演出:佐藤 杏子

あらすじ・概要

がれきの山で目覚めた女。人は誰も居ない。震災でもあったのだろうか……人を探して数日、やっと男を見つけるのだった。

主観的感想

脚本について

顧問の創作脚本です。地震(震災)後というイメージを直接的に表現せず、状況を説明するには遠い台詞から徐々に震災ということを説明するあたりきちんと基礎を押さえた台詞回しがされていました。

話は「ガレキのイメージ」とそこを彷徨う男と女、そして「自分たちは存在するのか」という実在への疑問から街の見る夢にまでたどり着く悲痛な話です。おそらく戦争か都市がひとつ消えてしまうような大災害をイメージして作られています。

しかしそれにしては台詞回しが軽妙であって、命あるモノが存在しないという背筋が凍るような状況がなかなか描き切れていません。必ずしも本のせいとは言えない面はありますが、情景をあまりに無視した台詞回しでシニカル(皮肉)にすらなっていないところに大きな問題があります。この作品(主題)は大枠としての「滅亡感」や「破滅感」があって、そこに唯一の「生」(希望)である男女が描かれてこそ成り立つものであり、大枠としての悲壮感を描くことなく登場人物の「生」にばかり着目しすぎた面は否めません。

例えば、最初から男女を登場させ、男を悲壮的な考えの持ち主(「暗」)、女を明るい未来的な考えの持ち主(「明」)と設定した上で、対話させつつ、街という状況から対話の材料を与えるという話作りならば、まったく違って見えたと思います。1つ1つのエピソードも適当に繋げたという疑問が拭えません。

「どうしたら(話の大前提である)破滅を描けるか」(伝えられるか)を台詞回しからも、エピソードからも、もっと丁寧に突き詰めてほしいと感じました。

脚本以外

台詞もそうですが、演技にも悲壮感がまるでありません。世界観である「破滅した世界」に居たらどういう気持ちになるかという思考が不足しています。役者が理解した気持ちしか観客には伝わらないのですから、その点は残念でした。また台詞が多く、対話の間が悪くなっています(「間」が無い。間を作るための時間的余裕がないぐらい台詞が多い)。気持ちの理解が不足しているため「命あるものの音が、一切消えてしまったのよ」といった台詞がどこか浮いて聞こえます。全体的に台本に台詞を言わされているように聞こえてしまいます

男はガレキの下から救い出されるとお腹に金属の棒が刺さっていました。しばらくしてから劇中の登場人物達が気付くのですが、観客は助けられた瞬間から気付いているため、理解にタイムラグが起きます。何か狙ったものならまだしも、コメディとしても成立していなので微妙な感じになってしまいました。

あれこれ言ってしまいましたが、装置のガレキ感はよくつくってあったと思いますし、役者もとても頑張って(精一杯)演じていました。その一生懸命さが気持ちのいい劇でした。少人数で大変だと思いますが、役者とスタッフが両方一緒になって「本読み(気持ちの理解)」にもっと力を入れるとうんと良くなると思います。