前橋育英高校「じゃがいもカレー」
演出:小野関 祐
あらすじ・概要
おじいさんの本棚で見つけた日記帳。そこに書かれていた衝撃の事実、戦中に友人を殺してしまったおじいさん。その友人はおばあさんの(かつての)婚約者だった。
主観的感想
脚本について
「合宿をしながら知恵を絞り合って作り上げました」とのことです。あらすじのとおり、その日記からおじいさんが家出をして戦中の回想になります。結婚60周年記念のパーティーでおばあさんにそのことがバレてしまうのですが、実はおばあさんは知っていたという心温まる「いい話」です。
ややシーン転換が多いことが気になります。一番の問題は回想を使わずに表現して欲しかったということです。度々言っているとおり、演劇ではシーン転換は余り向きません。うまく処理しないと転換中に進行が完全に止まってしまうからです。TVドラマは逆にシーン転換しないと(リアリティがないので)間が持ちません。本作中で回想によって観客に伝えられる『真実』というのは、実のところ観客にとってはどうでもいいこと(知らなくてもいい興味のないこと)です。観客が知りたいのは、そこに居る人物たちの気持ちの動きとその交流です。
小説でも一緒ですが事実は事実として淡々と表現するよりも、「昨日食べた料理美味しかったよね」「そうそう中に入ってた野菜があんなに美味しいなんて」という風に登場人物達の主観で描かれた方がよっぽど興味が沸きます。友人を殺したときの真実を淡々と説明されるよりも、そのときの状況を知る者を出して(日記に書かれていたのを読んだ人で充分でしょう)、おじいさんと対話しないといけません。
確定的に「いけません」と書いたのにはもう一つ理由があります。このお話は結果的におばあさんが「許す」ことで幕を閉じるのですが、おじいさんはその段階においても「過去の事実に向き合っていません」。向き合うのが怖くて逃げているのです。怖くて逃げていたら知らないうちに許されてしまった「ああラッキー」では、観客は共感しませんし、感動もしません。このお話がきちんと成立するためには、おじいさんは最低限「過去に向き合う」必要があります。おじいさんどころか、物語の作者がそこから逃げていては観客の気持ちを動かすことはできません。厳しいようですが実際問題、物語を紡ぐということは自分の身を削るような辛い作業なのです。そして、その作業無くして共感は得られません。
脚本以外
全体に演技にしまりがありません。メリハリがないというか、抜けきっているというか、表現が難しいのですが、とにかくしまりがありません。シーンが断片的で投げっぱなしです。これもしまりがない一因です。台本を舞台の上で読んでいますが演じてはいません。どう言ったら伝わるでしょうか。
エチュードというものがあって、そういう練習をするといいと思います。例えば2~3人で「先生と生徒」とかそういう簡単な状況を即興で演じます。3~5分ぐらいです。他の人はそれを見ています。即興劇が終わったら、観ていた人にどうしたらもっとリアルに見えるか発言してもらいます(議論になればなお良いです)。それを色々な設定や組み合わせで行います。言葉であれやこれやと説明するよりも、それが一番良いです。別に今回の劇台本1シーンで構いませんが、台本に知恵を出し合ったように、演技でもみんなで知恵を出し合ってみてください。すぐに上手くなります。
戦争という比較的重たい題材を選び、しかもそれをきちんと劇として成立させていました。その情熱はすばらしいものがあります。