高崎商科大学附属高校「H31」

  • 作・演出:荻野 葵平(生徒創作)

あらすじ・概要

古びた民家に住み込む小説家の高杉のところに、担当編集者がやってきた。原稿はぜんぜん進んでないという。

そこにやってくる近所のおばちゃんたち、生徒たち。みんながわいわいしているところへ……。

感想

幕上がって、大掛かりな装置で古民家風の縁側のある部屋がありました。すごい気合の入った畳部屋にまず感心。作・演出ってことで結構期待してたんですよ。庭にある軽トラックもよくできていました。

装置でひとつだけ気になったのは舞台上手の縁側出入り口でした。そこに立てかけてある黒板が小さくて、見る位置によっては袖や裏手に抜ける役者の姿が見えてしまった。ちゃんと見えてることは意識して動いてたので、そこまで気にはならなかったけども勿体なく感じてしまいました。

演技と上演、素晴らしかったと思います。全てのシーンの動きもほぼ隙無く作りこまれていて、リアクションが本当によくできている。役者が次のアクションを準備してない素晴らしさ。ここまで作るのは大変だと思うのですが、本当によく練習したなと感じます。ただシリアスシーンで、お通夜のようにうつむいてたのはもったいなかったかな。

台本について

前半はコメディで、よくこれだけの掛け合いを作りんできたなと本当に感服しました。そしてコメディで始まったお話は、やがてこの町から立ち退くかどうかという話題に流れていきます。この流れも前フリを使ってうまく処理しています。生徒創作台本でこのレベルは本当に久しぶりに見ました。

それだけに惜しいと感じてしまう部分があります。この台本では、実在する「八ッ場ダム」を題材として、そのダムに沈む村の人々の苦悩を最終的には描いていくのですが、そこでいくつか気になってしまいました。

実在の「八ッ場ダム」という固有名詞を出す必要があったのか?

あえて出すという決断をしたことも織り込んだうえで、それでも八ッ場ダムという固有名詞を出す必要が本当にあったのかと言わざる得ません。誰がどう見ても「八ッ場ダム」の話をしていると分かっても、あえてその固有名詞を出さない(またはダムという言葉すら出さない)という選択があったのではないかと思うのです。

固有名詞、まして社会的にメジャーな出来事である「八ッ場ダム」の名称を出すことは、観ている人にそのイメージや想いを喚起してしまいます。その言葉を使うことによる効果はたしかにあるのですが、付随する「上演に対するマイナス要素」を完全に払拭できていたかというと疑問が残ってしまいます。

もっと単純に言えば、こういう重たい単語は「使ってしまうと陳腐」なのです。せっかく間接表現できる力量かあるのにもったいないと感じました。もしくは、固有名詞を出しても問題なかったと思わせるような更なる成熟がほしいです。

終盤に向けて話が発散してしまっている

物語というのは、一般的には「中盤までに広げた風呂敷を、最後に畳んで収束させる」ものです。しかしこの作品は、八ッ場ダムをめぐる人々、翻弄される人々を後半に描き、話を広げてからそのまま終わらせています。これも作者の意図した構成だとは思うのですが、投げっぱなし感が半端ないです。

しかも重用なこれらの翻弄される人々は少しも描いてない。独白に頼ったり、TV番組に頼った説明台詞だったりするだけで、「これだけ説明すれば分かるでしょ?」という構成なのです。TVや役所の人たちは嘘っぽすぎて、完全に物語を進めてる装置になってしまっている。一番大切なところを少しも描いていません

「町はバラバラよ。あんなに仲の良かったみんなはどこに行ったの!」

「あんたたちが(略)すべてをぶち壊したのよ」

このサイトでは繰り返し述べていることですが、人物の想いはエピソードで描かないと少しも伝わらないんです。

このレベルの台本が作れるなら、TVや独白や役所といった説明的なものをいくつか排除して、代わりに具体的なエピソードをひとつ描くことはできなかったんでしょうか、と思わずには居られません。

演技・演出について

本当に人物もよく読み込んでいたし、動きも綺麗だったし、演出はきちんと仕事してたと思います。

例えば「話してるのに声が聞こえない処理」というのはともすれば違和感を与えかねないのですが、ストレートに納得できる演出がされていました。ラストシーンは写真にように停止する演出でしたが、あそこまで完璧に止まるということは難しいのに「あれ写真でも見てるのかな?」と思ってしまうほどでした。綺麗な静止、素敵です。

良いものだけに色々言いたくなってしまいました。本当に面白い上演でした。おつかれさま。そういえば題名きっと何か意味あるんでしょうけど分からなかった(苦笑)*1

*1 : H31というのは八ッ場ダムの完成予定「平成31年」のことらしいです。情報提供ありがとうございます。

2015年度 群馬県大会

台本を解釈する方法

物語の解釈

台本を演じるとき、どういうことに気を付けているでしょうか。台詞を覚えるのは大切なんですが最初に掴んでほしいなと思うのが、台本が何を表現しているかです。

よほど悪い台本でなければ、その台本にはきちんと意味があります。でもこのお話は「これこれこういうお話なんだよ」というのは台本のどこをみても説明されていません。台詞に書かれている言葉、シーンの流れからくみ取る必要があります。

例えばみにくいあひるの子という童話を知ってますよね。

「ねえ、みにくいあひるの子ってどういう物語?」

こう聞かれたらどう答えますか?

「アヒルの群の中で生まれたひな鳥が、一人姿が違うため周りからいじめられる。そして放浪し、最後に疲れ切ったひな鳥は水辺に行く。水面に映った姿から自分の姿がアヒルではなく美しい白鳥であったことに気付く物語」と答えれば間違ってはいませんが、「あらすじじゃなくて、どういう内容のお話? 何を表現しているお話? 何を訴えてるお話?」と聞かれたどう答えますか。

  • いじめられ虐げられたアヒルの子が、いじめていたアヒルたちを見返すお話
  • アヒルの子がみためが違うというだけで虐げられるという、社会風刺のお話
  • アヒルの子のように、誰でも優れたところを持っているというお話

正解はありません。どんなものでも正解です。このように物語に意味を与える作業が解釈です。

さてここで質問です。

「みなさんが上演した台本はどういうお話ですか?」

この問いにきちんと答えられるでしょうか。即答できるでしょうか。即答できない人が多いのではないかと思うのです。例年の多くの上演で、解釈が行われていない(解釈を突き詰めていない)と感じるものがとても多くあります。台本をきちんと演じられるようになったら、台本のまま上演するというレベルは卒業しなければなりません。

解釈を与えることによって台本は演劇になります。演じる人たちのオリジナルの舞台になります。初めて演劇として生きてきます。初めて本物になります。解釈を行うために、みんなで「どういうお話か」と議論することは大切だし、必ずやってほしい。それも定期的に何度もやってほしい。

登場人物の解釈

台本の解釈にはもう一つの要素があります。それは登場人物の解釈です。

登場人物の心情というのは、台詞に表れていますが直接的には書かれていません。台詞の裏を読む必要があります。どうしてその登場人物はそんなことを言ったのだろうか。どういう気持ちでその台詞をいったのだろうか。特に台本中のキーワードとなる重要な台詞には必ず意味があり、その裏に登場人物の心情があります。

それを解析し「こうだったに違いない」と決めてあげることが心情の解釈です。注意してほしいのは、これも正解は存在しないということです。作者の思った「こうだった」と同じである必要はありません。台詞や状況から自由に想像して決めていいのです。だからこそ解読ではなく解釈と言います。

みにくいあひるの子で言えば、アヒルの子(ひな鳥)はどういう気持ちだったのでしょうか。

  • ひとりだけ姿が違うことに「悔しい」気持ちたった?
  • 自分が情けなく「悲しい」気持ちだった?
  • 本当は自分だって負けていないと感じていた?

実はアヒルの子ではなく白鳥だと分かったときはどうでしょう。

  • 「いじめてた奴らざまあみろ」と思った?
  • 純粋に「嬉しい」と思った?
  • 「自分を信じてよかった」と感じた?

同じ台詞があったとしても、心情の解釈によってまったく違う表現になることは分かりますよね。*1

*1 : 蛇足ですが、解釈の余地のない、台詞で心情や状況がすべて説明されている台本というのは良い台本ではないと思います。

まとめ

台本の解釈は最初に行うのが本来だとは思いますが、ある程度練習を行い、通し稽古ができるようになってから行っても構わないと思います。たぶん、そうする方が最初の時よりも深い解釈ができると思います。台本はよく読んでみるとシーンごとに表現したい内容が変化しています。その小さな表現の変化が、全体としての表現に繋がっていますので、1ページごとに「ここはどういうシーン」という解釈を与えてみるのも(またその議論をしてみるのも)大変よい練習になると思います。

自分たちなりの解釈をきちんと与えたら、次はそれをどう表現するか考えてみてください。どう表現したら自分たちの解釈が観客に伝わるのか懸命に工夫してください。大切なのは、台本の内容が伝わることでも、物語を理解してもらうことでも、役をうまく演じることでもないのです。自分たちの考えた想い(解釈)が観客に伝えられるかどうかが一番大切なのです。

解釈の大切さというのがなんとなく伝わりましたでしょうか。解釈をして表現するということは基本であるのですが、プロ劇団(小劇団)ですらおざなりにされることがあります。大変だなーと感じるかもしれませんが、ここが演劇の一番面白いところですので、ぜひとも実践されることを願います。

動作で演技しよう

動きで演じる

演技と言うとまず台詞を思い浮かべるでしょう。実際、台詞を覚えなければお話にならず、覚えた台詞をきちんと言えるかどうかは最重要です。この台詞をどう演じるか、自然な会話とはなにかということは、最近はよく研究され、演技に活かさているように感じます。

一方で、動作の演技・演出がおざなりになっている学校が目立つようになりました。動かなすぎたり、動いても不自然だったり、美しくなかったりしてます。

「ねえねえ、そこにあるノート取って」

こんなシーンを考えてみます。ただ言葉で言うだけでも通じますが、「そこ」と言う時に視線が「そこ」に行くだけでなく、思わず指を差してしまったりしませんか。取ってもらいたい相手が近くに居て、それが親しい友人なら「ねえねえ」という時に方や腕を軽く叩いたりしませんか?

次に、言い争いをしているシーンを考えてみます。

「どうして今まで黙ってたんだよ」

こんなとき、ただ言葉で言い合うだけなのでしょうか? 感情を高ぶらせて喚きながら、せいぜい机を叩いたり、足を大きく踏み込んで足音立てたりぐらいでしょうか。でも相手がそこに居るならガツガツと前に詰め寄ったり、顔を相手に向けてつきだしたり、場合によっては掴みかかって相手の体を振ったりしませんか? 「どうして」と言いながらダダダダダと相手に接近し、そこで台詞と動作を止め、「今まで」と言いながら少し離れ視線を外し「黙ってたんだよ」と言ってから相手を睨む。この例が良いか悪いかはともかく、体を使えばこれだけ色々な表現をすることができるのです。

こういう体の動きって、普段は感情の反応として自然と出てしまうものです。台詞の演技は良く研究されているようなので、同じ要領で体の反応についても研究してみると良いかもしれません。

立ち振舞い

人物の動作にはその人物像が出てきます。例えば、座り方ひとつ取ってもその人物の性別はもちろん性格まで出てくるのです。きちんと座るのか、ダルそうに座るのか、猫背で座るのかでも意味がぜんぜん違います。足を閉じるのか、開くのか。開くとしてもどのぐらい開くのか。これだけでも全然意味が違ってくるのです。

そして人物の関係性。台詞では表現しにくい登場人物たちの相互の関係性は動きによって表現することができます

極端な話、人物AとBが戯れていれば仲が良いことがわかるし、その様子をCが羨ましそうに見ていて、それに気づいたBが軽く嫌そうな顔をすれば、たったそれだけで3人の関係性が如実に説明されます。むしろ、この体の演技を抜きにして台詞だけで関係性を表そうとするから嘘っぽくなるし真に迫らないのです。*1

*1 : 台本を書く人も、このつもりで「台詞で説明しすぎない」「こういう演技に時間を取れるだけの余裕を残す」配慮が必要です。

静止の動作

動作に関連してもう1つあります。それは「静止」の動作です。これができていない学校が非常に多い。

静止と言ってもコメディのストップモーションを言っているのではありません。演技、演出上必要になった「止まるべき演技」のときにはきちんと止まってください。道路の「一時停止」でスピードを緩めて止まった風というのはNGです。どこから見ても分かるように止まる。頭のてっぺんからつま先まで神経を張り巡らせて止まる。特に、動作に美的なものが求められるシーンや人物では、動くことよりも止まることを意識してください。

美的でなくてもコメディ的な部分でもそうなのですが、動作にメリハリが感じられない理由の多くは「動き」の雑さよりも「停止」の雑さに原因があります。日常シーンではあまり必要にならないとは思いますが、「止まる」ということを意識すると動作のメリハリが付き、演技の印象がとても良くなりますのでぜひ覚えてください。

演出の役割とは?

演出不在の上演や、実質的に顧問の先生が演出している上演が非常に多いのですが、演劇における演出の役割について説明したいと思います。

演出の役割

「それぞれのシーンでどういう風に動いたり、配置したりする人」

ぐらいのイメージの人多いのではないでしょうか。ついでにBGMとか装置の配置とか。全員でアイデアを出し合って演技を付けていくことは大切ですし、 「演出:○○演劇部」というのはまさにそれを示しているのでしょう。しかしこの方法にのみに頼ることは問題があります。

演劇の『演出』という役職は映像分野では『監督』に相当します。つまり、劇に関する最高責任者で、劇に関してすべてを決定できる代わりに面白くなっかたら全部その人の責任になってしまうぐらい重い立場に居るのが『演出』です。脚本を書いた人よりも、どの役者よりも一番偉いのが『演出』なのです。

作家はお話を書くとき「全体の大まかな流れを」決めてから「細部」を決めていきます。同様に、演出とは、台本を素材として全体をどうみせるか、 例えば「悲しい」「怖い」「家族愛」「形式美」「不条理」などの演出テーマを考え、その具体的な方法論を決定します。

  • 「とにかく掛け合いでお腹が捩れるまで楽しませよう」
  • 「どこまでも美しくみせよう」
  • 「適度に笑わせつつ、最後は感動してもろおう」

こんな感じで全体プランを決め、それを踏まえて細部(各シーン)をどう作っていくのが全体目標に対してより効果的か考え、演技を決めていきます。


この「全体から細部におとしこむ」という作業がとてつもなく重用で、にも関わらずこの作業を行えてる(演出が仕事している)上演がとても少ないのです。

「全体から細部へ」という流れが抜けるために、細部(各シーン)の演技や演出だけ行ってしまうと、全体として散漫な(まとまりのない)印象となったり、テーマに対してちぐはぐな印象を受けたり、見た後で「結局何がしたかったんだろうか?」という疑問が生まれたりします。

そして演出は、本来は役者を兼任しないほうがよいのです。あくまで魅せることにこだわって、一歩も二歩も引いた視点から劇全体を眺める必要があります。当事者になってしまうと見えてこない、当事者から一歩引いた視点だからこそ見えてくるものがあるのです。「全体としてどう魅せるか?」ということは、そのシーンを賢明に演じているときは特に忘れてしまうからです。

部員不足もあるなか高校演劇において演出にそこまで求めるのはシビアだとは思います。しかし演出という役職をうまく作れないとしても、『全体としてどうみせるか』『全体の流れ、全体の強弱をどう付けるか』はみんなで常々気にしておいた方が良いでしょう。

メリハリを作ろう

高校演劇でよく見られる失敗のひとつに「全体的に一本調子で劇を演じてしまう」ことがあります。

音楽の話をしましょう。楽譜には「FF」(フォルティッシモ)に始まり「PP」(ピアニッシモ)まで、実に多くの強弱記号があります。いわゆるサビではFFで強く最初や終わりはPPで弱く、またサビに入る直前ではいきなり切り替わらないで徐々に盛り上げていきます(音の強弱以外にもテンポも変化させます)。

市販の楽曲でも、サビがとても心地よく聞こえるのは、サビ以外の部分がサビを引き立てているからに他なりません。試しにサビの部分だけ繰り返し聴いてみれば、あっと言う間に飽きてしまいます。弱く歌う部分があるから強く歌う部分が引き立つし、強く歌う部分があるから弱く歌う部分に惹かれたりするのです。


この音楽の話は、ありとあらゆる創作についての示唆を含んでいます。

演劇も同様です。観ていて「とにかく笑わせよう、盛り上げよう」という意図を感じる上演があっても、逆にそればかりだと段々と辛くなってきます。とにかく元気よくテンポ良くやることが楽しませるコツではありますが、全体から見た「そのシーンの役割」も考えずそればかりをやってしまうと問題があります。どこが重要なシーンで、どこが魅せたいシーンなのか分からなくなってしまうのです。

会話をしていても、大切なことを言うときはトーンを落としてヒソヒソ声になる。そんな風にトーンやテンポに変化を付ければいい。例えば、ずっと笑わせていた上演で、急にテンポやトーンを落とした場面をみせれば、そこでグイっと引き込むことが出来る。 逆にテンポ押さえ気味に話を進めていて、最後の山場に向かってどんどんテンポやら調子をアップさせていけば クライマックスは相当印象的に映る。

ドラマでも映画でも何でも、原理は同じですから観察してみると色々と学ぶところがあります。