桐生南高校「夏の終わり、狐の嫁入り。」

  • 作:栗田 綾菜(顧問創作)
  • 演出:亀里 涼介
  • 創作脚本賞

あらすじ・概要

おじいちゃんは国語の先生で、おばあちゃんは理科の先生だった。二人が大好きな美紅(みく)。やがておじいさんが亡くなり、おばあさんも一人では暮らせなくなってしまい、高校生になる美紅はおばあちゃんの家で二人暮らしをすることにした。。

感想

装置は、ちゃぶ台が置かれ、薄汚れた壁で囲まれ、写真などが置かれた部屋を丁寧に作ってきていました。これだけリアルだと、出入り口の「のれん」がちょっと謎にはなりますが、とても気合いを入れて作ってきたと思います。

にぎやかワイワイの友達たちがとてもよくできていて、下手に全力でにぎやかさを演出すると進行を邪魔してしまうのですが、その辺よく配慮していたと思います。おじいさん、おばあさんもよく演じていましたが、少し反応速度が早かったかな。老人は思考速度が落ちますので、「……んっ、なんだって?」まで行かなくても、若者よりは会話に対する反応が少し遅くなります。

気になったところ

まずおばあちゃんが部屋を掃除するシーン。BGMに乗せて「形」(掃除をしてますという記号的演技)で済ませていたのがとてももったいない。掃除を時間をかけてきちんとするだけで、おばあちゃんのリアリティが増しますし、性格も見えてきます。台詞でない部分で人物を説明でき、しかもきれい好きを伏線とできるとても貴重なシーンなのです。*1

きれい好きに関して付け足すなら、日常の別のシーンでも細かいところで(美紅たちがやってくるとき、いつも掃除をしている。写真のほこりを落としている。テレビを雑巾がけしている等)で演出した方がよかったんじゃないかな。また、おばあちゃんがボケた後の「部屋の散らかり」も形になっていますね。もっと違う表現の仕方はありませんでしたか?

途中にある美紅の周りに三角コーンを3つ置いて工事用ポールで囲む演出。これなんだったんでしょう? 壊れていくおばあちゃんか美紅(との関係?)か何かを明示してるんだと思うのですが、これ単なる説明ですよね。しかもほぼ伝わってない説明。台詞や状況で十分伝わっていたと思うのですがその演出本当に必要だったのですか。おばあさん一人になってしまった家を取り壊しているのかと思いましたし、急に工事関係者みたいな人たちが出てきて違和感だらけでした。

序盤ですが、美紅がなんでおじいちゃん、おばあちゃんにここまで想い入れてるのか全く伝わってきません。説明はありましたが、欲しいのは説明ではありません。エピソードです。エピソードが無理でも、関係性(の演技)で匂わせてほしいところです。

一番もったいないのは、ラストシーン(ラスト前)ですね。

「私はこの日のことをずっと忘れないと思う。5人で食べた最後の夕飯」

最後に家族みんなで食べた最高の夕食シーンです。良いですよね。美しい。このシーンのためだけにこの劇が存在したと言っても過言ではないぐらいの名シーンですね。

…………なんで省略したの! なんでみせてくれないの!!

台詞なく、ただただ美味しそうに食事するシーン*2劇中で一番の見せ場でしょう。それ省略するってどういうことなんですか! と叫びたい気持ちでいっぱいでした。

あとこれは好みの問題ではありますが、ラストシーンで美紅が泣いて終わるので本当に良かったのかな。美紅は、劇中大きな声を出し叫んだり泣いたりしながら感情いっぱいな姉として演出されているので、その美紅が大泣きするのは比較的普通のことです。もしこの大泣き演出を成立させたいなら、美紅はそれより前のシーンでもう少し控えめに演出したほうが良いのではないかと思います。

台本について

栗田綾菜先生の脚本です。以前も述べました通りやや荒削りな印象を受けました。

  • 説明セリフが多い。
  • 場面転換(暗転)がやや多い。

セリフに関しては台本作者のセンスであり個性なのですが、以前より良くなったものの状況を台詞で喋らせがちですね……。魅力的な台詞についてもう少し検討してほしいかなと思います。

途中にあった、美紅が実家にメールするシーンや実家で老人ホームのことを父と母が検討するシーン。シーンまるごと要らないと思います。

メールを送るという行為は貴重な伏線となりますし、その後、家族の中で何が起こったのだろうかというのは美紅の預かり知らぬところなので、それを匂わせる(もしくは次に会ったときに会話させる)ことで非常にきれいに処理することができます。少し演出の話が混ざりますが、あのシーンはテンポを悪くするだけでなく、そもそもが説明的なシーンであり、舞台の端に椅子や机を用意することで更に説明度合いが増しています

さて、栗田先生脚本は家族問題、特に嫁姑問題や痴呆問題について興味があるのかな。勝手な解釈かもしれませんが、理想として家族は大切にしたい、でも現実には問題が多く理想通りに行かないといった印象。全体的に(特に痴呆関連の描写は)以前の「ファミコン!」より良くなっていたと思います。

まとめ

今の状態だと美紅にばかりスポットが当たっているのですが、もっと「おばあちゃん」や「美紅とおばあちゃんの関係」にスポットを当てれば、印象は(文字通り)劇的に良くなったと思います。それと、台詞以外で表現(説明ではない)することに気を配ると良いでしょう。

色々書きましたが、上演終盤からすすり泣く声が客席で聞こえてましたし、力いっぱいの素敵な上演でした。

*1 : 細かいことですが、畳は畳の目に沿ってほうきがけします。畳の目に逆らってほうきがけすると、きれい好きには見えません。

*2 : できれば本物で!!

桐生南高校「ファミコン!」

  • 作:栗田 綾菜(顧問創作)
  • 演出:齋藤 玲也
  • 創作脚本賞

あらすじ・概要

3兄弟と父と祖母の5人家族。姉は大学生となり家を出て行き、やがて認知症が進んでいく祖母。その中で、家族のために頑張る高校生つぐみは何を思うのだろうか。

感想

広いステージにちゃぶ台と上手にテレビを置いて、奥に板と少し高くなった場所に何やら荷物がある舞台でした。何かと思ったら、奥の高くなったのは2階の子供部屋だったらしい。

  • 役者がそこに行くまで部屋と分からなかった。
  • その場は暗くて演技に適さなかった。奥の子供部屋にスポットがあたっているのに、手前の居間(ステージ)のほうが明るいことがあった。

演劇の文法として、一番明るいところが今お話が進んでいる場所なので違和感を感じました。ピンスポを使うなり何か工夫できなかったのかな。あと手前と奥の出入り口に、白いのれんがかかっているのだけど、のれんの固定位置が8尺(天井の位置)なので違和感があった。人員や予算の関係で舞台装置にどの学校も凝れるわけでなはないのですが、のれんの位置はどうにでも出来たはずなのでちょっともったいなかったです。

子供部屋、そこまで重要な役割はしていなかったので、少し工夫すればそもそも用意しなくても作れれたのではないでしょうか。

台本について

TV的な台本という印象が強かった。

  • 優太とおじいちゃんのエピソードシーンや、その挿入タイミング、全体で担う役割があまりに説明的
  • TVのニュースによって情報を与えるのは説明的。またその台詞も嘘っぽい。
  • しかもそのニュース以降に急に認知症が進んだ。

認知症の症状で料理の手順を忘れるのってかなり症状が進んでいる状況だと思うのですが、急にそこに到達したよう観客には映ります。このことによって、おばあちゃんの認知症という出来事があからさまに配置されてる印象を与えます。役者の演技力に関わらず説得力を失うのです。

優太とおじいちゃんのシーンはまるごと要らないんじゃないかと思います。

終盤の公園はとてもいいシーンなのですが、そこまで公園もホームレスも一度も登場しないので説得力が弱いのです。取ってつけた印象が拭えません。

エピソードの説得力というのは適切な前フリによって生まれます。そして何事も説明し過ぎは格好悪いのです。ストーリーは面白いと思うのですが、それを台本にする段階でうまく消化しきれなかった印象があります。台本執筆は慣れもありますので、最初からうまく作れる人は少ないものの、前フリがうまく処理できればいい線行ったと思いますのでもったいないと感じました。

演技・演出について

わかりやすく、人物立てもしっかりした舞台だったと思うのですが、リアクションが甘かったかなという印象がありました。「台詞」に対する「台詞の反応」が甘かったように、次に何言われるか分かってて準備してた印象がありました。

みんな頑張ってたのがよく伝わってきましたが、つぐみ役の方は主役だけあって中でもかなり頑張ってたと思います。一番の脇役のおばあちゃん。テンポの遅さはよく出てたと思うんですけども、人物造形が少しステレオタイプだったかなと感じました。おばあちゃんだって認知症の自覚はありつつ、色々と想うところはあったんじゃないかな。そういう部分はあまり伝わってこなかった。

また、つぐみが耳を塞ぐといったような演技は気になりました。本当にそんなことします? 耳を塞ぐというのは、聞きたくないという記号であって演技ではないんですよ。他にもそういった記号的表示がいくつか散見されました。


さて最後にBGMのお話です。ほとんどゲームのBGM、しかもマリオの音などを結構長く使ってタイトルのファミコンに引っ掛けていました。でも実は「ファミコン」ってそういう意味ではないんですよというオチになっています。これについては一言だけ触れておきます。

「たったそれだけのために舞台のムードをすべてぶち壊すようなBGMを使ったなんてもったいない」

まとめ

本当に頑張って舞台を作りこんでいて、とても分かりやすく、お話も十分に使わってきました。上演おつかれさまでした。

桐生南高校「プレシオスの鎖」

作:栗田 綾菜(顧問創作)
演出:滝沢 香月

あらすじ・概要

文化祭を控えた生徒会室。その中でだんだんと居場所を失っていく知夏。文化祭後、やがて知夏は学校に来なくなってしまった……。

感想

下手に机とホワイトボードと椅子。生徒会室という設定らしい。上手に高さ1mちょっとで2m四方ぐらいの台と2方向に階段。ここが知夏の部屋という設定らしい。上手側の舞台は抽象を扱いますよってアピールになってますね。

ラストシーンのすてきな星空の照明と、知夏と明希の魅せる演技と演出。「本当の幸いを見つけるように願うから!」。上演終了後、口元を抑えて涙ぐむ人がいっぱいいたし、多くの人が照明が素敵だったと口々に言っていました。それだけ観客に届いた素敵な上演で、もうそれで十分、何か言う必要はないですよね! ってことにしたいです。それだけ素敵な舞台だということはもう大前提とした上で更にどこをよく出来るかってお話です。

この台本、時間軸がわざとずらしてあり、かつ抽象要素を加えて成立させています。ペラペラという効果音的台詞は宮沢賢治の「銀河鉄道の夜の本」をめくる音だし、銀河鉄道の夜の中の文章と舞台上の台詞を交互に入れる場面すらもあります。この交互という演出、狙いはわかりますが現状ではどっちつかずの中途半端でイマイチだっと言わざる得ません。別に1行単位で交互に挟まなくても良いし、何行かまとめてぐらいのほうが伝わったと思うんですけどね。他にも台本上にあまり演劇向きではない要請がいくつかあると思われ、そういう部分は思いきって整理したほうが良かったのではないかと感じました。

講評でも指摘されていましたが、机の落書きについて「○ぬ」なのか「○の」なのかって伏せ字の状態で台詞を掛け合うところ。あまりに分かりにくいので、ここはちゃんと「死ぬ」「死の」とか言うべきだったと思います。声の演技が非常にうまかったのですが、反面、動きが雑だった印象を受けてしまいました。またラストシーンで花火を上げるという意味で背面のホリに色を投影するのですが、最初の色が赤で、花火の音が出る前なので「ギョ」っとしてしまいました。赤ホリって夕日じゃなければ、もっぱら血なんですよね。

生徒会室のシーンで文化祭後、生徒会長が感極まって泣くシーンがあるのですがフリが全くない。観客の気持ちがついていかない。それは知夏についても言えて、講評で指摘のあったとおり「舞台上では何も起こっていない」ので、やっぱり観客の気持ちがついていかない。知夏が鎖に繋がれて、それを振りほどいていく演出は面白いのですが、そういう舞台上での出来事の積み重ねが全くないためにとても説明的な表現に映ってしまいます。

タイトルにもなっているプレシオスの鎖というのは宮沢賢治の銀河鉄道の夜に出てくるモチーフで、解説をちょっと引用してみます。

「プレシオス」がギリシア語であるとすると、「プレシオスの鎖」が意味するものは、自分にとって身近なものへの執着、親しい者と愛着によってつながっている状態、と考えてよいと思います。ジョバンニにとっては「カムパネルラとどこまでもいっしょに行きたい」という願いがそれにあたります。しかしなぜ「プレシオスの鎖」は、解かれねばならないのか。(中略)

妹のとし子は賢治にとっていちばん近しい・自分に似た存在であったと思われます。それゆえに愛着を感じるのですが、近親者への愛着は、「むかしからのきょうだい」である「みんな」(全ての生き物)の幸福のことを忘れて、自分の愛するものだけが幸福になればよいと祈ることに通じます。

それゆえ、「みんな」の幸福のためには、「プレシオスの鎖」は、解かれねばならない、身近な者への執着は断ち切られねばならない、ということを、ブルカニロ博士は、夜空の「プレシオス」(おそらく賢治が創作した架空の星座でありましょう)に喩えて、ジョバンニに諭したのでありましょう。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」のであります。
Yahoo知恵袋より引用

ここから読み解くに「私の本当の幸いはみんなの本当の幸いではない(みんなの幸せのために、自分は幸せになれない)」ということに気づいた知夏は自殺した。他にどうすることもできなかったから。自分の幸せは逃げること(自殺)でしかなかった。舞台上では何も起きないという欠陥はあるけども、これはとてもおもしろい台本なのです(創作脚本賞かなと思った)。

しかし、どうしたらいいんでしょうね。いっそ生徒会室での文化祭の下りは要らないんじゃないかな。もっと別の、明希と知夏の関係、知夏と世界(日常)の関係を表現できるエピソードをいくつか入れて、全体をもう少しだけ抽象に振って練りなおしたら変わるのかな。

台本の問題に足を引っ張られた感はあるのですが(個人的な話ですが途中完全に飽きてしまいました)、それでも台本の良さを最大限に活かし非常によく作りこまれた舞台で、少し雑な部分は差し引いてもとても素敵でした。ラスト付近でブザーと汽笛を合わせる演出はにくいよね。この台本、練りなおしてもう一回やってくれないかなって本気で思ってます。上演おつかれさま!

桐生南高校「笠懸野」

作:伊藤 藍(顧問創作)
演出:新井里実、春山奈々
※優秀賞(次点校)

あらすじ・概要

マラソンで3位となってしまって居場所を失った男が河原に。そこに魔女のような女が現れ……。ついで同級生たちが現れるがそのとき男の姿はなく……。

台本の感想

河原での出来事と河原の記憶としての回想。笠懸地方で昔あった出来事の再現。男と同級生たちの関係も、何も説明しないまま進む舞台進行。そして最後に、男が自殺したことが明かされる。着想や構成は面白いなと思いますが、講評でも指摘があったとおり(顧問創作なので言い淀んでましたが)全体の構成から見ると個々の回想エピソードが完全に浮いてしまっていて正直なところ「要らないよね?」としかならなかった。散漫な話という印象が拭えません。

男と魔女の関係(会話)で進めてしまったほうがよっぽどすっきりするし、もっと男の深い部分を描くこともできたんじゃないかなとしか思えませんでした。マラソンで自殺は円谷幸吉がモチーフなんでしょうか。

感想

舞台の端から端まで河原の土手が表現され、奥にホリ。手前への階段が2つ。河原や手前の地面全体に落ち葉が置かれ(河原には落ち葉の絵と落ち葉を貼り付けて)いました。今年大掛かりな装置を用意したところは少なかったので、よく作ったなと感じました。でも土手にしては高さが1mちょっとしかなく傾斜が緩いので低く感じてます。仕方のないところですけど。

女のしわがれた声の演技うまかったですね。あと田中正造とか、そのあたりの回想エピソードも非常によく演じられていました。ただ人物によって滑舌や声に力が入りすぎたり、複数人で同じ台詞のところは声がずれたりして聞き取りにくかった気はします。これが現代の言葉なら問題なかったのでしょうが、古い言葉なので通常以上にきっちり聞こえないと分からないのですよね。

土手が紅葉色でホリも紅葉色にしているシーンがあるのですが、綺麗と言うよりも色が一緒で混ざっちゃってる印象が強かったので、もう少しホリの色味を変えるとかできなかったのでしょう。雷の演出は上手かったと思います。あと舞台下手の巨大なブランコとその音は非常に良く効果的に使われていました。

他方、水音のSEがループの繋ぎ目がハッキリ分かってしまい、しかもループの間隔が短いので気になってしょうがなかった。PCでフリーのWave編集ソフトを使えばこの手のループは簡単に処理できますし、別の音源を探してくることもできたと思うので(川音にしては土手の大きさと乖離している)絶対的にどうにかすべきだったでしょう。

全体的に

演技や芝居の実力はあるし、よく演じられていたのに台本が少しもったいなかったかなという印象はあります。この台本ならこうなるよねという感じです。

ただまあ、台本が散漫なところを散漫にならないように演出する配慮は可能だったかもしれません。スポットを当てるとしたら男なのかな。男とその同級生という関係性でもよかったかもしれない。やっぱり台本を直さないと難しいところがありますけど。

桐生南高校「やさしいひと」

作:青山 一也(顧問創作) ※台本はこちらのサイトで読むことができます
演出:徳田 彩香
※優秀賞

あらすじ・概要

両親が居ない後藤家5人兄弟姉妹の元へ大輔という男性がやってきた。(同性愛である)兄のために彼氏候補として次女はるかが連れてきて、一緒に暮らすことになる兄弟たちと大輔。少しずつ変化するみんなの気持ちの中で、やがて家族同然となり兄と大輔は距離を縮めていく。そんな中、はるかはだんだんと不機嫌になり……。

感想

結構期待してみました。一軒家のリビングのイメージで真ん中にテーブル、壁には柱のハリがあり高さもしっかり8尺ぐらいある。奥に廊下で階段が少しみえ、右手側にお勝手。左手側に窓。部屋の奥が玄関なんだろうなあとか、そういうのを想像させるいい装置でした。

物語は次女はるかが、兄に「今日、会ってほしい人がいるんだけど……」というところからはじまり、大輔がやってきたことによる兄弟の変化が主軸になっています。ベース作だという「本日は大安なり」を観ているのですが改作というよりはまったく違う劇という印象をうけました(台本を読み比べるとたしかに似てます。月日が経って忘れたのか、はたまた演技力の差か)。こういうセクシャルマイノリティを嘘っぽくなく書けるのは青山先生らしいところですね。説明台詞を排除してあり台詞だけただ読んで上演しても観客に何一つ伝わらないまさに演劇らしい演劇台本になっています。

観てびっくりしました。すごい良かった。ちゃんと演出が仕事してるのね。ここまで演出が仕事した舞台は県内では久々に見た気がします。動作や台詞の間、動きのひとつひとつに至るまで努力と工夫を重ねきちんと計算されているのがよく分かりました。タイミングが絶妙。そして役者が個々に人物を掘り下げ、台本の台詞をそのままやるのではなくアレンジし、台本とは異なる人物像を作り上げいるのもよかった。役者が台詞に頼ることなく態度や視線・動きで表現し、動作と停止を含めてきちんと演じている。特にお兄さんよかったなあ。動作も声の張り上げとかも、ものすごくよかった。たしかに役者さんによって声が聞き取りにくかったり、若干演技の甘い場所はありましたが、そこは書かなくても分かっているのでしょう。

気になったところは、講評でも指摘されていましたがやはりテーブルクロス。どんどん左にずれていってしまった。アドリブで直せるとよかったと思います。もうひとつ、途中で1ヶ月や半年などの時間経過があるのですが、部屋や服装がほとんど変化しないのがやはり気になりました。テンポよく転換するので仕方ない面はありますが、テーブルクロスを変えるとか(ずれないように重ねておいて上を1枚取るとか)、小物が増えてるとか、カレンダーをめくる以外に何か工夫がほしかった。カレンダーも「月」が客席からも見えやすいカレンダーを選ぶ(もしくつは作る)などの工夫があってよかったと思います。物語上半年や1年も経過する必然性は無いのだから「春から夏にかけて」のように季節の変化を出しやすい設定をしてしまう手も選択肢としてあったでしょう。

クオリティ高いんだけどさらに上を目指すなら、関係というものにもっと注目してほしかった。兄と大輔の引かれ合う間柄というのがもっと見えてほしかった。(台本のとおりなんだけど)中盤「さん付け?」と気になってしまった(さん付けから名前に変わるのはもう少し早くする選択肢もあったのかも)。例えば家族の前では視線を気にするだろうけど、特に二人きりになるシーンならちょっと好意みたいのが透けていいと思う。台詞じゃない恋心。もうひとつ、兄とはるかの関係。はるかが兄を慕う様子がもっと態度に出たらよかった。おなじことは他の兄弟にも言えて、そんな3人のことを(何も考えてないというのを含めて)他の兄弟はそれぞれどう思っていたんだろうかと感じてしまいました。もちろん現状でも演じていたんだけど、そういうのがもっと見えてほしかった。

こういう関係を描くのはいかにも仲良さそうなシーンよりそうでない日常シーンの方がはるかに向いているので、中盤3つのエピソードを1つ絞り膨らませ、二人の距離が縮まったきっかけエピソードを挿入するといいのかも。それを見ている家族の態度で、それぞれの気持ちも描けるし。

全体的に

本当によく出来ていて上映終わったときにほろりと来て、上演1分オーバーにも関わらずラストを巻きで終わらせなかった判断にまたほろり(苦笑)。客席に目の赤い人もちらほらみかけましたし。たぶん上演時間オーバーは、観客の「笑い待ち」をきちんとしたためなんじゃないかな。

お世辞抜きで今大会で一番よかったと思います。過去に見た桐南の上演の中でも一番良かったと思います。ほんとに関東大会行ってほしかった。行って全くおかしくない上演だったとそう思います。