脚本:水野 陽子
演出:窪田 有紗(兼 主演)
※最優秀賞(関東大会へ)
あらすじ
高3のカナエは、放課後の演劇部部室で一人本読み。そこへやってきたサキがカナエの進路を心配するが、カナエは曖昧な返事を返すばかり。サキが三者面談でいなくなると再び「想稿・銀河鉄道の夜」の台本(以下銀鉄)を読み始める。演劇部には、上演後の台本を破り捨てるという伝統があったが、カナエは2年前に上演したその台本を捨てずにそれをもっていた。そこへ現れる親友のトウコと、そのまま銀鉄の話で盛り上がる。銀鉄におけるジョバンニとカンパネルラのシーンを二人で振り返る。
トウコからカナエへの投げかけにだんだんと考えを変えていくカナエ。「その台本を捨てよう」と。二人で破りそしてトウコはカナエの元を去っていった。そう、カナエは今はもう居ない人物だった。
脚本について
この本は演劇界では結構有名なものみたいです。1996年の全国大会において兵庫県立神戸高等学校が上演した生徒創作台本のようです(高校演劇Selection'98収録)。検索してみると高校演劇においてもよく使われる台本で、たしかにその完成度の高さは唸るものがあります。と思ったら(この本について)こんな話をみかけました。
主観的感想
伊工同じく、県内でもこの2校は演技力の格が違います。声はもとより、「アクション」や「止め」や「間」の使い方が非常にうまく、照明やBGMの処理も的確で、もうそれだけでも唸ってしまいますし、さすがに良い台本を選んできています。
さて、舞台は演劇部の部室なのですが、まず気になったのは電柱(演劇のセットを物置に代わりにしているという設定)が部屋の天井よりも高いはどうだろうと思ったのですが、講評によると「どこかファンタジーを感じさせる舞台(意訳)」ということでしたので、これで良いみたいです。
スポットで2回ほど微妙に位置がずれていまして(破いた原稿を足で動かそうとしてたので不思議だったのですが、後でライトをあてる位置に動かそうとしたみたいです)、もったいないといえばそうなのですが、位置のことを気にしすぎて演技が小さくならなかった証拠と好意的に解釈しました。昨年度ラストシーンのバナナでの打ち合いでは、まさに(演じてる)当人たちが楽しむという基本がなかったのですが、今回はカナエとトウコが雑巾を投げあうシーンなど、形で演じるのではなく楽しむということが抑えられていて非常に良かったです。
あとは、トウコがカナエの元を去るシーンで効果的にBGMを使っているのですが、もう少しだけ小さくしないと台詞が聞こえません。
【全体的に】
共愛というと(一昨年、昨年と)台本選びのセンスが良く完成度も高いが、一方で狙いが微妙にずれているというイメージがあってあまり期待はしていなかったのですが、今年はそのイメージを崩されました。見終えた瞬間「最優秀賞だな」と確信しましたし、結果発表のときに喜んでいる姿を見ては「聞くまでもなく最優秀賞」とすら感じました。誰が審査しても文句なく、今年の最優秀賞だと思います。
昨年度と比べても驚くべき成長ぶりで、一昨年、昨年と苦言を呈され続けたダンスシーンは今年は潔くあきらめてましたし、演出や演技という意味においても、より一歩も二歩も掘り下げてきていたように感じました。ですが、その一方で「ではこれで関東大会を勝てるか?」と訊かれたら(関東大会の他校の実力は分からないものの)難しいのではないかと感じます。「間違えなく面白かった。しかし何か物足りない」というのが愚直な感想です。
結局のところカナエが銀鉄(のシナリオ)に執着する想い、進路に対して迷いをもっているという想いが、あまり描かれていないのだと思います。シナリオの構成を汲み取る限り、抑圧、悩みといったカナエの後ろめたさ、何かを引きずっているという描写を重ねてこそ、最後の開放に力や意味が生まれるのに、その辺がおざなりになったためにラストシーンがいまいちパッとしないと言えるのではないでしょうか(もちろん引きずっているのはトウコのことですが)。
昨年度も似たようなことを書いたように思いますが、まずラストに魅せたいものは何であるかを考えて、そこから逆算して「そのためには事前に観客に何を伝えるべきか、理解してもらうべきか」を考え、必要な演出を考えるという作業がどうしても必要になります。この本の場合は「トウコという過去に別れをつげる」ことがクライマックスなのですから「トウコといち過去を引きずっている」という描写がどうしても必要です。演じるほうが理解してるのは分かりますが、それを観客も理解できるようにきちんと工夫してください。
※もしかすると共愛の演劇というのは、参考にする舞台の資料(映像?)というものが残っていて、そこからデッドコピーしているのではないかという仮説を思いつきました。もし違っていたら大変失礼なこととは思いますが、そう仮定すると毎年毎年これほどの完成度でありながらこれほどまでに「独自の物語の解釈」が存在しないことを明快に説明できます(結局今年も「脚本≫演出」であって「演出>脚本」とはなっていない)。以下はその根拠のない仮定が正しいとした上でのお話で関係者の方々にはますます失礼な話になってしまいますが(ごめんなさい)、観ていて上演の目的がうまく演ずることにあるように思えてならないのです。コンクール的にそれは正義なのですが、演劇の本質は「伝える」ことでうまく演じることは「手段」でしかありません。そこを逆転させてしまうと、やはり今回感じたように「よくできている。だけど(何だか分からないけど)何かがつまらない」となってしまうのだと思います。もしそうであるとすれば、演出から役者、裏方のスタッフ1人1人に至るまで、勝つために演じるのではなく、表現するために、伝えるために演じるのだと考えを改める必要があるように感じます。人は形では感動しません。人は心で感動します。形を真似るのではなく自分たちの心を込める作業をどうか忘れないでほしいと思います。もちろん不安はあると思いますが、そうすることでたくさん観客の、その中のたった1人でいいから感動させてみてほしいと個人的に切に願います(それはきっと勝つことよりもとても素晴らしいことです)。以上、仮定の上でのお話で大変失礼いたしました。関東大会、期待しています。
審査員の講評
【担当】光瀬
- 大変すばらしい舞台装置で、具体性があるわけではないが何か起こることを期待させてくれた。
- 3人の演技が声、間ともに上手かったが、年代が似通っているだけにみんなが頑張ってしまうと声質が似てしまいよく聞き取れなくなってしまった。
- サキについて。彼氏が居るわけだから、恋した少女というのをもっと出した方がよいと思う。恋をしていれば、例え彼が居なくてもいつでも彼が居るように楽しそうな感じになると思うのだけど、そういう面があまり出ていなかった。そういう部分を強調して見せていいと思う。
- トウコについて。カナエを受け入れる器が見えなかった。一緒に騒いでしまうと(カナエと)同じ次元になってしまう。(最終的にトウコはカナエを諭すわけだから)カナエよりも大きな器、例えば(自分の意志ではなく)何者かに動かされているというムードやどこか達観したようなムードを出したらよかったのではないか。過去に、ある宗教家の家に泥棒が入ったという演劇に関わった(?)ことがあるが、そこではその宗教家は神の意志で泥棒を追いかけているということにした。そういう風に、何しからバックがあるとか、異質さを出すとかするとよかったと思う。
- 個々のシーンで本筋から離れてギャグにいってもちゃんと帰ってきていた。
- 前半の雑巾を投げ合うシーンでは、本当に本人たちが楽しんで投げ合っているのがよく分かった。本当に起こっているという(何にも勝る、そして演劇として大切な)説得力があって大変良かった。
- コント的なところで、話したあとに二人で笑うシーンがあるのだけど観客を置いていってしまった感じがする。
- 窓の外の野球を見るシーン、まさに「いいシーン」なのだけど。こういう「いいシーン」はさらりと流すと観客が勝手に感動してくれるので参考にしてください。
- サキの彼氏役(の声を)女性が演じていたが、あれは絶対に男じゃないといけない。何をどうしてでも(どんなコネや強引な手を使ってでも)男の子を連れてくるべきだった(編注:一瞬、共愛は女子校だから無理では……と思いましたが、今は共学のようです)。
- BGMに名曲(ニューシネマ・パラダイス)やサンボマスターを使っていたが、両方というのはちょっと気になった。どっちかでいいのでは。また、ちょっと使って音楽の力を拝借するというよりは、大胆に思い切り使うというのではよかったのではないか。ラストシーンはサンボマスターだけでよかったのでは?(編注:他にもこの演劇に対してニューシネマ・パラダイスの音楽をBGMとして使用した例があるようで、参考にしたのかも知れません)