桐生市立商業高校「わが家のあかし」

  • 作:中原 久典(既成)
  • 演出:(表記なし)

あらすじ・概要

春菜、夏代、秋穂の3人姉妹の一家。ある日、次女の夏代が彼氏を家に連れてくるという。それに右往左往する父親と、家族たちのコミカルな劇。

感想

面白い台本ですね、これ。コメディでありながら、一本話の筋を通していて、説明し過ぎない台本。最後にはちゃんと収束させているのがまた素敵です。

さて幕が上がって、後方に一面の白い8尺パネルで中央にドア。下手にソファー、上手にテーブルと椅子。リビングっていう設定っぽいです。それにしては中央の空間が少し気になってしまった……。この空間はもっと狭くして近づけたほうがよかったような気がします。

中盤、下手で家族たちが、上手で部外者がそれぞれ居るシーンでは、距離が少し遠く感じてしまったのですよね。家族と部外者なので、あんまり近いのもおかしいのですが、それにしては少し遠かった印象。だだ広いと寒々しさを感じまして、これがこのアットホームな上演には不釣り合いなんです。照明ではなく*1移動する範囲が部屋であることにして、後ろの幕をもっと寄せて部屋空間を狭めることはできたのではないかと感じました。

装置といえば、途中から忽然と消えた壁の時計は一体?


この台本、下手をすると笑いが取れずに寒々しいだけになりかねないのですが、父親や彼氏のキャラ立ちがしっかりしてたおかげで面白い上演になっていました。特に、お父さん! いい味出してたなあ。ただ、シリアスシーンではちょっと違和感を感じることもありましたけども、ある程度しょうがないのかな。

ひとつ大きな違和感を感じたのが、日記のダンボールから冬彦の日記を読まれてることを父親や母親が気づいたシーン。台詞には出さなくても、もっとびっくりしません? もしくはそれが意図したものなら「しめしめ、思い通り見つけてくれたな」って反応をしませんか? ほぼ無反応なのはおかしいと思うのです。

それも含めリアクションはちょっと甘かったかなとも感じましたが、それでもきちんと演技され、声もよく聞こえ、分かりやすい上演になっていたと思いました。

でももっと良くするならと考えると、そこはやはり3姉妹かなと思います。高校生が演じるので難しいのは分かりますが、それでも3人が並んだ時に誰が長女で、次女で、三女かということが伝わってこなかった。長女と三女は5歳差でしたっけ? 舞台からは全然伝わってません。

演じ分けも立ち居振る舞いや動作速度によって色々と工夫する要素はありますが、一番簡単なところで服装をもっと工夫できなかったのでしょうか。そう考えると、服装を分けるにあたって夏服である必要あったのかな? 夏服って服装を変え辛いのです。母親のエプロンは良いアイテムだっただけに、3姉妹ももう少し分かりやすくしてほしかった。

3姉妹の関係性がパッと見でわかりにくいせいで、関係性がより見え辛くなっていてます。それぞれがそれぞれに対してどう想っているか伝わってこない。そして、キャラを優先させすぎて想いの面で少し弱くなってしまった父親、全体として印象が弱かった母親。母親を母親らしく見せるには、母親自身の立ち振舞(結構頑張ってたと思います)の他に、母親に対する娘たちの視線や接し方もとても重用です。他の人物に対しても全てそうです。

この台本を成立させるのに一番大切なことは分かりますか?

それは尾崎家5人の関係性です。その関係性は台本には直接書かれていませんが、だからこそ上演するときに解釈して伝わるように演じる必要があります。それが不足した。本当にそれがもったいない。


とはいえ、終盤に向けて観ている側をグイグイと引き込んでいく面白い上演だったと思います。カッターは見た目よくわからないけども、カッターの音でちゃんと伝えるとか、色々工夫もされていました。上演おつかれさまでした。

*1 : この劇場の照明はあまり自由が効かないようなので

桐生南高校「ファミコン!」

  • 作:栗田 綾菜(顧問創作)
  • 演出:齋藤 玲也
  • 創作脚本賞

あらすじ・概要

3兄弟と父と祖母の5人家族。姉は大学生となり家を出て行き、やがて認知症が進んでいく祖母。その中で、家族のために頑張る高校生つぐみは何を思うのだろうか。

感想

広いステージにちゃぶ台と上手にテレビを置いて、奥に板と少し高くなった場所に何やら荷物がある舞台でした。何かと思ったら、奥の高くなったのは2階の子供部屋だったらしい。

  • 役者がそこに行くまで部屋と分からなかった。
  • その場は暗くて演技に適さなかった。奥の子供部屋にスポットがあたっているのに、手前の居間(ステージ)のほうが明るいことがあった。

演劇の文法として、一番明るいところが今お話が進んでいる場所なので違和感を感じました。ピンスポを使うなり何か工夫できなかったのかな。あと手前と奥の出入り口に、白いのれんがかかっているのだけど、のれんの固定位置が8尺(天井の位置)なので違和感があった。人員や予算の関係で舞台装置にどの学校も凝れるわけでなはないのですが、のれんの位置はどうにでも出来たはずなのでちょっともったいなかったです。

子供部屋、そこまで重要な役割はしていなかったので、少し工夫すればそもそも用意しなくても作れれたのではないでしょうか。

台本について

TV的な台本という印象が強かった。

  • 優太とおじいちゃんのエピソードシーンや、その挿入タイミング、全体で担う役割があまりに説明的
  • TVのニュースによって情報を与えるのは説明的。またその台詞も嘘っぽい。
  • しかもそのニュース以降に急に認知症が進んだ。

認知症の症状で料理の手順を忘れるのってかなり症状が進んでいる状況だと思うのですが、急にそこに到達したよう観客には映ります。このことによって、おばあちゃんの認知症という出来事があからさまに配置されてる印象を与えます。役者の演技力に関わらず説得力を失うのです。

優太とおじいちゃんのシーンはまるごと要らないんじゃないかと思います。

終盤の公園はとてもいいシーンなのですが、そこまで公園もホームレスも一度も登場しないので説得力が弱いのです。取ってつけた印象が拭えません。

エピソードの説得力というのは適切な前フリによって生まれます。そして何事も説明し過ぎは格好悪いのです。ストーリーは面白いと思うのですが、それを台本にする段階でうまく消化しきれなかった印象があります。台本執筆は慣れもありますので、最初からうまく作れる人は少ないものの、前フリがうまく処理できればいい線行ったと思いますのでもったいないと感じました。

演技・演出について

わかりやすく、人物立てもしっかりした舞台だったと思うのですが、リアクションが甘かったかなという印象がありました。「台詞」に対する「台詞の反応」が甘かったように、次に何言われるか分かってて準備してた印象がありました。

みんな頑張ってたのがよく伝わってきましたが、つぐみ役の方は主役だけあって中でもかなり頑張ってたと思います。一番の脇役のおばあちゃん。テンポの遅さはよく出てたと思うんですけども、人物造形が少しステレオタイプだったかなと感じました。おばあちゃんだって認知症の自覚はありつつ、色々と想うところはあったんじゃないかな。そういう部分はあまり伝わってこなかった。

また、つぐみが耳を塞ぐといったような演技は気になりました。本当にそんなことします? 耳を塞ぐというのは、聞きたくないという記号であって演技ではないんですよ。他にもそういった記号的表示がいくつか散見されました。


さて最後にBGMのお話です。ほとんどゲームのBGM、しかもマリオの音などを結構長く使ってタイトルのファミコンに引っ掛けていました。でも実は「ファミコン」ってそういう意味ではないんですよというオチになっています。これについては一言だけ触れておきます。

「たったそれだけのために舞台のムードをすべてぶち壊すようなBGMを使ったなんてもったいない」

まとめ

本当に頑張って舞台を作りこんでいて、とても分かりやすく、お話も十分に使わってきました。上演おつかれさまでした。

高崎商科大学附属高校「H31」

  • 作・演出:荻野 葵平(生徒創作)

あらすじ・概要

古びた民家に住み込む小説家の高杉のところに、担当編集者がやってきた。原稿はぜんぜん進んでないという。

そこにやってくる近所のおばちゃんたち、生徒たち。みんながわいわいしているところへ……。

感想

幕上がって、大掛かりな装置で古民家風の縁側のある部屋がありました。すごい気合の入った畳部屋にまず感心。作・演出ってことで結構期待してたんですよ。庭にある軽トラックもよくできていました。

装置でひとつだけ気になったのは舞台上手の縁側出入り口でした。そこに立てかけてある黒板が小さくて、見る位置によっては袖や裏手に抜ける役者の姿が見えてしまった。ちゃんと見えてることは意識して動いてたので、そこまで気にはならなかったけども勿体なく感じてしまいました。

演技と上演、素晴らしかったと思います。全てのシーンの動きもほぼ隙無く作りこまれていて、リアクションが本当によくできている。役者が次のアクションを準備してない素晴らしさ。ここまで作るのは大変だと思うのですが、本当によく練習したなと感じます。ただシリアスシーンで、お通夜のようにうつむいてたのはもったいなかったかな。

台本について

前半はコメディで、よくこれだけの掛け合いを作りんできたなと本当に感服しました。そしてコメディで始まったお話は、やがてこの町から立ち退くかどうかという話題に流れていきます。この流れも前フリを使ってうまく処理しています。生徒創作台本でこのレベルは本当に久しぶりに見ました。

それだけに惜しいと感じてしまう部分があります。この台本では、実在する「八ッ場ダム」を題材として、そのダムに沈む村の人々の苦悩を最終的には描いていくのですが、そこでいくつか気になってしまいました。

実在の「八ッ場ダム」という固有名詞を出す必要があったのか?

あえて出すという決断をしたことも織り込んだうえで、それでも八ッ場ダムという固有名詞を出す必要が本当にあったのかと言わざる得ません。誰がどう見ても「八ッ場ダム」の話をしていると分かっても、あえてその固有名詞を出さない(またはダムという言葉すら出さない)という選択があったのではないかと思うのです。

固有名詞、まして社会的にメジャーな出来事である「八ッ場ダム」の名称を出すことは、観ている人にそのイメージや想いを喚起してしまいます。その言葉を使うことによる効果はたしかにあるのですが、付随する「上演に対するマイナス要素」を完全に払拭できていたかというと疑問が残ってしまいます。

もっと単純に言えば、こういう重たい単語は「使ってしまうと陳腐」なのです。せっかく間接表現できる力量かあるのにもったいないと感じました。もしくは、固有名詞を出しても問題なかったと思わせるような更なる成熟がほしいです。

終盤に向けて話が発散してしまっている

物語というのは、一般的には「中盤までに広げた風呂敷を、最後に畳んで収束させる」ものです。しかしこの作品は、八ッ場ダムをめぐる人々、翻弄される人々を後半に描き、話を広げてからそのまま終わらせています。これも作者の意図した構成だとは思うのですが、投げっぱなし感が半端ないです。

しかも重用なこれらの翻弄される人々は少しも描いてない。独白に頼ったり、TV番組に頼った説明台詞だったりするだけで、「これだけ説明すれば分かるでしょ?」という構成なのです。TVや役所の人たちは嘘っぽすぎて、完全に物語を進めてる装置になってしまっている。一番大切なところを少しも描いていません

「町はバラバラよ。あんなに仲の良かったみんなはどこに行ったの!」

「あんたたちが(略)すべてをぶち壊したのよ」

このサイトでは繰り返し述べていることですが、人物の想いはエピソードで描かないと少しも伝わらないんです。

このレベルの台本が作れるなら、TVや独白や役所といった説明的なものをいくつか排除して、代わりに具体的なエピソードをひとつ描くことはできなかったんでしょうか、と思わずには居られません。

演技・演出について

本当に人物もよく読み込んでいたし、動きも綺麗だったし、演出はきちんと仕事してたと思います。

例えば「話してるのに声が聞こえない処理」というのはともすれば違和感を与えかねないのですが、ストレートに納得できる演出がされていました。ラストシーンは写真にように停止する演出でしたが、あそこまで完璧に止まるということは難しいのに「あれ写真でも見てるのかな?」と思ってしまうほどでした。綺麗な静止、素敵です。

良いものだけに色々言いたくなってしまいました。本当に面白い上演でした。おつかれさま。そういえば題名きっと何か意味あるんでしょうけど分からなかった(苦笑)*1

*1 : H31というのは八ッ場ダムの完成予定「平成31年」のことらしいです。情報提供ありがとうございます。

2015年度 群馬県大会

台本を解釈する方法

物語の解釈

台本を演じるとき、どういうことに気を付けているでしょうか。台詞を覚えるのは大切なんですが最初に掴んでほしいなと思うのが、台本が何を表現しているかです。

よほど悪い台本でなければ、その台本にはきちんと意味があります。でもこのお話は「これこれこういうお話なんだよ」というのは台本のどこをみても説明されていません。台詞に書かれている言葉、シーンの流れからくみ取る必要があります。

例えばみにくいあひるの子という童話を知ってますよね。

「ねえ、みにくいあひるの子ってどういう物語?」

こう聞かれたらどう答えますか?

「アヒルの群の中で生まれたひな鳥が、一人姿が違うため周りからいじめられる。そして放浪し、最後に疲れ切ったひな鳥は水辺に行く。水面に映った姿から自分の姿がアヒルではなく美しい白鳥であったことに気付く物語」と答えれば間違ってはいませんが、「あらすじじゃなくて、どういう内容のお話? 何を表現しているお話? 何を訴えてるお話?」と聞かれたどう答えますか。

  • いじめられ虐げられたアヒルの子が、いじめていたアヒルたちを見返すお話
  • アヒルの子がみためが違うというだけで虐げられるという、社会風刺のお話
  • アヒルの子のように、誰でも優れたところを持っているというお話

正解はありません。どんなものでも正解です。このように物語に意味を与える作業が解釈です。

さてここで質問です。

「みなさんが上演した台本はどういうお話ですか?」

この問いにきちんと答えられるでしょうか。即答できるでしょうか。即答できない人が多いのではないかと思うのです。例年の多くの上演で、解釈が行われていない(解釈を突き詰めていない)と感じるものがとても多くあります。台本をきちんと演じられるようになったら、台本のまま上演するというレベルは卒業しなければなりません。

解釈を与えることによって台本は演劇になります。演じる人たちのオリジナルの舞台になります。初めて演劇として生きてきます。初めて本物になります。解釈を行うために、みんなで「どういうお話か」と議論することは大切だし、必ずやってほしい。それも定期的に何度もやってほしい。

登場人物の解釈

台本の解釈にはもう一つの要素があります。それは登場人物の解釈です。

登場人物の心情というのは、台詞に表れていますが直接的には書かれていません。台詞の裏を読む必要があります。どうしてその登場人物はそんなことを言ったのだろうか。どういう気持ちでその台詞をいったのだろうか。特に台本中のキーワードとなる重要な台詞には必ず意味があり、その裏に登場人物の心情があります。

それを解析し「こうだったに違いない」と決めてあげることが心情の解釈です。注意してほしいのは、これも正解は存在しないということです。作者の思った「こうだった」と同じである必要はありません。台詞や状況から自由に想像して決めていいのです。だからこそ解読ではなく解釈と言います。

みにくいあひるの子で言えば、アヒルの子(ひな鳥)はどういう気持ちだったのでしょうか。

  • ひとりだけ姿が違うことに「悔しい」気持ちたった?
  • 自分が情けなく「悲しい」気持ちだった?
  • 本当は自分だって負けていないと感じていた?

実はアヒルの子ではなく白鳥だと分かったときはどうでしょう。

  • 「いじめてた奴らざまあみろ」と思った?
  • 純粋に「嬉しい」と思った?
  • 「自分を信じてよかった」と感じた?

同じ台詞があったとしても、心情の解釈によってまったく違う表現になることは分かりますよね。*1

*1 : 蛇足ですが、解釈の余地のない、台詞で心情や状況がすべて説明されている台本というのは良い台本ではないと思います。

まとめ

台本の解釈は最初に行うのが本来だとは思いますが、ある程度練習を行い、通し稽古ができるようになってから行っても構わないと思います。たぶん、そうする方が最初の時よりも深い解釈ができると思います。台本はよく読んでみるとシーンごとに表現したい内容が変化しています。その小さな表現の変化が、全体としての表現に繋がっていますので、1ページごとに「ここはどういうシーン」という解釈を与えてみるのも(またその議論をしてみるのも)大変よい練習になると思います。

自分たちなりの解釈をきちんと与えたら、次はそれをどう表現するか考えてみてください。どう表現したら自分たちの解釈が観客に伝わるのか懸命に工夫してください。大切なのは、台本の内容が伝わることでも、物語を理解してもらうことでも、役をうまく演じることでもないのです。自分たちの考えた想い(解釈)が観客に伝えられるかどうかが一番大切なのです。

解釈の大切さというのがなんとなく伝わりましたでしょうか。解釈をして表現するということは基本であるのですが、プロ劇団(小劇団)ですらおざなりにされることがあります。大変だなーと感じるかもしれませんが、ここが演劇の一番面白いところですので、ぜひとも実践されることを願います。