桐生南高校「ばななな夜 ~BananaんNight~」

作:入江郁美
構成:青山 一也
演出:桐南演劇部

あらすじ・概要

夜の公園で時間を潰す少女二人。その二人にあやしい女から「謎の箱」があずけられた。箱の中身は、覚醒剤? 爆弾? 拳銃? そんな不安を抱えつつ少女二人と、公園へ訪れる変な人たちの心の交流を描く。

高校演劇ではよく扱われる定番台本。群馬県大会では同大会での2日目の高崎商科大学付属、また2004年の共愛学園

感想

まず幕が開いて、中央に金色の謎な格好をした像。像のまわりを四角く囲むように長い木箱状の椅子。街灯、月。レンガ模様を描いたパネルと個人園芸などでよく使う長板をクロス貼りした板が、2つ1セットになって舞台の上手と下手に配置。舞台左手側のレンガの上に柿の枝っぽオブジェ(でも物語設定は初夏でしたっけ?)と下にくずカゴ。なんとなく散漫な印象を受けました。劇が始まって10分、演技からも同じくなんとなく散漫な印象を受けました。

装置を客観的に見ればやや空間が開けっ広げと言えますが、感触として「ほら公園っぽいでしょう?」という感じに取れてしまいました。たぶん一生懸命に作ったんだと思うんですが「ここは間違えなく公園だ」と(装置が)主張していない。いかにもそれっぽいものをそれっぽい配置にしてあるのですが、1度でも舞台正面から見て「これ本当に公園に見える?」と真剣に議論してみましたか? 人数や予算の関係で作れる装置に限界があることは承知しています。でも同じ労力でもっと公園を作ることはできたと思います。残念ながら「それらしいものをなんとなく配置した」という印象が強くありました。

そういう配慮の不足は演技にも感じられました。過去の県内の公演では「声が聞こえない」ということがよくありました。それを考えれば、台詞がきっちり聞き取れた発声は立派です。それだけに勿体ないのは、台詞に強弱をつけることが不足していたことでした。調子が一定なので、観てる側が飽きやすくなります。メリハリを付けようと努力しているのは分かったのですが、もっともっとオーバーにして問題ないと思います。声のトーン(テンポ)をもっともっと意識的に、真面目なところと掛け合いで裏を付くところを明瞭に変えてあげると、劇全体にぐっと魅力が生まれます。

入江役の役者さん。たぶん根が優しいんでしょう、その影響で入江がやさしいいい子になっていました。入江というキャラクターの解釈については色々あって構わないのですが、少なくとも何か(社会や彼氏等に対して)気に入らないことのある「トゲトゲしさ」を表現しなければなりません。舞台を観た人が、上演後に入江役の人に会場でみかけたとき「突っかかれそう。怖い」って思うぐらいの印象が(舞台上の)役として表現されてないとマズいのです。どうやって演じたらそういう人間として映ると思いますか? 同じようなことは伊藤役にも言えます。親から電話かかってきたら緊張して、ちょっとしたことを入江に言われておどおどして、根は真面目で。舞台に居る間ずっと緊張しっぱなし(の演技)なので、どこで本当に緊張しているのか分かりにくくなっていました。ゆるみの演技ができたらすごくよくなったと思います。

ストリートミュージシャン役として出てくる男子は、その点、メリハリがよく出来ていました。多少荒っぽいところはありましたが、止めも使っていてなかなかだったと思います。おばあちゃん役は「腰を曲げていればおばあちゃん」という先入観以上の何かがなかなか伝わってきませんでした。高校生がおばあちゃんを表現する最も的確な方法は、体の動かし方を注意することです。運動神経が悪くみえれば、おばあちゃん(おじいちゃん)になります。手足の動き、歩行するときの足の速度、体の動きにもっと気を遣ってあげると良いです。これはおばあちゃんに限らず、大人を演じるときもそうです。年齢を表現するのは、台詞ではなく、見た目はそこそこ重要ですが、それ以上に体の動かし方(と話のトーン)です。

全体的に

翌日公演された高商短付属の同じ「ばななな夜」を観て感じたとは思いますが、同じ演目でありながら幕が開いたときからしてもう「違う」という印象を受けました。その違いの原因は何だと感じたのでしょうか。経験の差? 部員数の差? 準備期間の差? 予算の差? 一番違ったもの(足りなかったもの)はそれではありません。

例えば、この演目の鍵となる「謎の箱」。この劇では全く目立っていませんでした。たしか濃い灰色に塗られた木製箱だったと思います。時に服の色に沈み、時に通学バッグの裏に隠れて、舞台に置かれても他の小物に混ざってよく見えない。最も重要な小道具が一番目立たない。おまけに、登場人物が箱自体を非常に軽そうに扱います。実際軽いのでしょうが、普通考えて「拳銃」が入っているかもしれない箱をあんなに粗末に扱うのでしょうか。これも(台本の指定が)箱だから(指定通り)箱を用意したとしか感じられなかった。

「この箱の中身はなんなんだろう?」「この箱は最後にはどうなっちゃうんだろう?」って観客に感じさせるにはどうしたら良いと思いますか。どうやったら箱をもっと意識してくれると思いますか。そういった、私たちの舞台は観客にどう映るだろう、私の演技は観客にどう映るだろう、どう感じてもらえるだろう、という配慮が欠如したことが一番の敗因だと感じています。

色々言いましたが、主力が1年生とは思えない劇の完成度と真面目な舞台作りは素晴らしかったと思います。あとは、なんとなくではなく、この舞台(演技)は自信を持ってこうなんだ! と言い切れるようになれば、今よりずっと観客を引きつけることができると思います。健闘を祈っています。

前橋南高校「蝉丸NOW」

作:能「蝉丸」より原澤毅一翻案(顧問翻案)
演出:(表記なし)

あらすじ・概要

受験を前にしていらだつ高校生が、女性のポスター、タバコ、音楽などに現実逃避するといった様子を言葉を使わずに表現した舞台。

感想

去年の能世界との交流に続く第2弾。台詞を排除して、舞台表現を繰り広げます。地味な背面パネル(壁)に扉を付けて部屋を表現しています。中央に机、壁にポスターなど。劇は言葉がなく淡々と進んでいきます。時々様子を見に来る母親。その母親の目を盗んで「東工大合格」と書かれたポスター裏の女性ポスター(マリリンモンロー?)を見つめたり、たばこを吸ったり、音楽にノってみたり。

登場人物の顔をみんな白く塗られ、現実っぽさを消しています。時折、舞台下手から能の格好をした白装束の人たちが出てきて踊りを踊り、また去っていきます。言葉がなくても、音と体だけでここまで表現できるだということを去年同様見せつけられる演劇です。

気になったのは時折出てくるその能っぽい人たちの背筋でした。BGMに能を流し、白い装束でキリっとしたムードを演出しているのに、背筋が曲がって頭が前かがみに出ています。背筋が曲がると動作が美しくない。現実世界と、人知を越えた能のような人の対比が重要なのに、その異界の者が「美しくない」のではどうにも困ってしまいます。日本古来の美しいな動作。美しい動作のためには、何よりも背筋を伸ばすことです。

ものすごく頑張って作り込んでいるのに、ただ背筋が伸びていないだけで、ものすごく勿体なく感じてしまいました。

全体的に

もうひとつ残念なのは、今年はその異界の者に全く主人公が気付きませんでした。気付かないということは交流がないということで、交流がないと存在しないのと同じになってしまいます。演劇という固定観念すらもぶち壊す意図なのかもしれませんが、そこまでの印象は感じられず(形式美であると納得するほどのものもなく)、そして劇としては何も中身がないため、とても中途半端(意味の解釈に困る)という状況になりました。

とってもよく作り込んでいるし、細かい部分まで拘っているのだけれども、惜しいかな「もう1、2…3歩」ぐらい足りなかったと言わざる得ません。「筋」などない「美」だというのならば、もっととことん美を追求してほしいと思います。というか、来年あたりは普通の演劇をしたいんじゃないですか? 表現したいことを表現することに頑張ってください。応援しています。

太田フレックス高校「先生、放課後って何時までですか?」

作:大渕秀代(顧問創作)
演出:川島 慎之介・大野 愛・深野 綾香
※創作脚本賞

あらすじ・概要

先生が校内を見回りしていると、校内で生活している女子生徒(神倉)を発見する。親に連絡するとしばらく来れないという。教師3人、職員室で待つのだが、ふとした物音から校内を探すと他にも校内で生活している生徒を数人見つけるのだった……。

基本一幕ものの、顧問創作台本。

感想

よく出来た台本です(創作脚本賞の是非については個人的に悩ましいところではありますが)。幕が開いて、3方を取り囲むようにパネル。下半分が茶色で上半分が白く塗られています。部屋らしさが十分出ています。高さもしっかり8尺あり(パネル1枚の高さ6尺だとやや低い)よくできています。中央左よりに広く窓がありカーテンが引かれ、手前にソファーが置かれその奥にあい向かいの教師卓、右手に木製テーブルとパイプ椅子が5~6個。右手の壁に木製の扉があります。とてもよく出来た部屋なのですが、どこなのかよく分かりません。第3職員室だそうですが、くつろげる部屋に教卓が置かれているという感じで、あまり職員室っぽさがない。たしかに現実には、こういう名ばかりの職員室もあるのですが。せめて木製の茶色い扉を、普通の職員室等で使う扉(白塗り+ガラス窓)にすれば違ってみえたように思います。もうひとつ、扉が開いたとき、パネルの立て付けが見えてしまうのはマイナスでした(舞台という幻想から現実に引き戻されてしまう=冷めてしまう)。

まず凄いなと思ったのが先生役3人が、きちんと先生に見えたこと。発声(や体格)もあるのでしょうが、やっぱりしっかりとした立ち居振る舞いが出来ていたおかげでしょう。とても良かったと思います。生徒たちを迎えに来る親も親っぽくなっていました。努力の成果だと思います。生徒たちも大勢でてきて、ドタバタとした非常に楽しい劇になっていました。進行と関係なく自分勝手に動き回る生徒とか、そういう個性もしっかり出ていたと思います。

特におどろいたのが神倉役でした。ラストシーン付近までほとんど無口で、親が迎えに来ていよいよ物語終演ということろで、堰(せき)を切ったように話し始めます。もうパニック気味に、泣きわめきながら頭の中を駆けめぐるよく分からない考えをそのまま口に出そうとする、とんでもなく難しい演技なんですが、うまかった。本当に泣いていたし(涙云々ではなく気持ちが)、本当にわめいていたし、その演技は舌を巻くほどでした。過去様々な泣きわめき演技を観てきましたが、これだけ上手いのは初めてです。

絶賛した後ですが、このシーン自体にはやや無理があります。迎えに来た母親に対して、なんで分かってくれないの!? という対立と悲鳴なのですが、その驚愕の演技力に支えられてはいてもここは独白であって、しかも前フリ(伏線)がない。ほとんど子供の面倒をみない嫌な(神倉の)母親というのはそのシーンでいきなり表現されるし、教師が巻き込まれた1日というリアリズムとして確かに伏線を置くことの無理が生じやすいのですが、そこは創作であって演劇。何故伏線を張らなかったのかとなる。

正直言って本作の最大の問題は台本にあると思っています。本の完成度も、よく出来た本であることも否定はしません。けれども、本作は教師たちが生徒たちに巻き込まれ、徹夜で色々な問題に否応なく付き合わされて、すべてを解決したら朝を迎えたという物語です。その最大の問題は神倉という生徒であって、朝方まで迎えに来ない神倉の母親です。そこから受ける迷惑というものが、一体どれだけ描かれているでしょうか。観客は神倉という娘の気持ちをこれっぽっちも理解できないし、抱えていた問題もまったく分かりません。……これじゃ落ちないでしょ? 大団円にならないでしょ? この本の構成上、神倉と母親の和解にカタルシスを感じないと(ほっとした気持ちになれないと)劇が終わらないし、ほっとしてもらうには「神倉は最後どうなっちゃうの」という緊張を事前に観客に与えなければならないんですよね。

全体的に

ものすごく情熱をもって劇全体が作られていたし面白かったと思います。教師は教師らしく、大人は大人らしく、生徒はまた生徒らしく、みんなきちんと個性をもって、それでいてきちんと演じられていました。本当にとっても良かった。

それだけに本は残念で(本を書いた)顧問の先生には大変申し訳ないのですが、この本は視点が教師なんですよね。色々なことあって巻き込まれた「教師の1日」であって「教師に見つかってしまった生徒の1日」じゃない。些細なのことなんだけど、大きな違いで、これ多分生徒からみたらそんなに面白くないですよ。

神倉役をベタ褒めしましたが、この演劇はそのラストシーン以外の印象がほとんどありません。神倉は、その前までの演技では何も語りませんでした。そういう意味ではとっても残念。言葉を使わなくても、身体で表現出来ることは言葉以上にたくさんあります。教師役もですが、もっと台本に解釈を加えて演じたらよかったんじゃないかな。教師たちは、神倉に対してどう思っているんだろう。心配なのかな、帰りが遅くなって邪魔だと思っているのかな、普段に問題のない生徒なのに何があったと心配になっているのかな、○○先生と一緒に残れて嬉しいと思っているのかな(下心)とか。神倉は見つかってしまったことをどう思っているんだろう。どんな気持ちで何日も学校に泊まっていたんだろう。そういうことに丁寧に気を配ってほしかった。それをするだけの実力はあると思うのです。表現する場面が必要なら、台詞やシーンを変えてでも、表現してほしかったと思います。

最後になりましたが、なんだかんだ言ってもよく出来ていた劇だと思います。情熱の入った舞台で、入賞しても不思議ではないと思っていました。

大泉高校「お部屋探し」

作:江原慎太郎(顧問創作)
演出:(表記なし)

あらすじ・概要

初夏、場所は大学生協。そこではこの時期になっても下宿部屋が決まらない3人の学生が。一人は大きな和太鼓を置く部屋がほしいという。もう一人コドモオオトカゲ(全長1m~3m)を飼いたいという。そこへ訪れたヨシダは、ほんの出来心で「みんなで一緒に住めばいい」と言うのだが。

感想

幕上がり、左手に扉のある白いパネル(高さ8尺)、水平になり右手までパネル(高さ6尺)。手抜きしないで8尺で統一してほしかった。左手に、壁に2方机にもう2方を囲まれたカウンターがありPCが置かれ、中に職員一人。中央のパネルにグリーンの掲示板、右手にスクール棚があり中に色とりどりのファイル。右手にホワイトボードで手前に机。ムードがよく出ていました。特にファイルが置かれていたのがそれっぽかったと思います。

ハイテンションでわいわいぎゃーぎゃーと部屋についてモメる3人と、それを無理矢理でもまとめようとするヨシダ。それを傍観者として完全に楽しんでいる職員。これらが織りなすハイテンションコメディが楽しくて楽しくて仕方ありませんでした。もう3人は早口で何言ってるか分からないぐらいなのですが(ほとんどの台詞はきちんと聞き取れる)、何言っているかわからないぐらいのテンションというリアルがありました。早回し(早口)と、それにヨシダが口を挟んで「場が止まる」(止め)の行き来かがものすごく上手く演じられていて、とっても面白かった。間(止め)の使い方が秀逸すぎるぐらい秀逸。最初のややポカーンという印象から、だんだんツボにハマリ、観客をグイグイと引き込んでいきます。

登場人物の服の色を意識して変えてあり、また(台詞上の)性格付けもしっかりしていて、やっていることはハチャメチャで。さあどうなるんだとなったところで一緒に住む話がボツになりそうになって、ヨシダが焦り初める。「なぜ、みんなで一緒に住もうと思ったのか」が語られ大団円。コメディーからシリアスへ流れて落ちる典型であり、うまくできていました。シリアスシーンでも「止め」がとても冴えていました。あの会場の静寂感は忘れられません。

気になったところ。ホワイトボードで、ホワイトボードに書くシーンがありますが、ぜんぜん見えません。赤字は特に見えませんでした。極太の水性マジックを使えばまだ見えると思うのですが(もしすでに使っていたらごめんなさい)。

全体的に

非常に面白い公演で入賞しないのが不思議なぐらいでした。同じように感じた人もたくさんいるんじゃないかな。上演時間1分オーバーしたように感じたので(たぶん)、それが入賞しなかった原因でしょうか。また脚本賞をとっても不思議じゃなかったと思います(「放課後~」の方がウケがいいのは分かりますが……)。

楽しんで演じられていることが非常によく伝わってきて、本当に良かったと思います。講評では、ヨシダの「一緒に住もうと思った理由」に前フリがないこと、理由の弱さが指摘されていました。残念ながら指摘は的を射ていて、たしかに納得はできませんし、それもあり上演後に「絶対入賞」とも思えなかった。しかしギャグものと考えれば今の劇は十分アリです。

本作を観て思い出したのは、2003年の県大会で上演された堅ゆでたまごの中へという演劇でした。ハードボイルドという設定で、事件解決(謎追究)をするのですが、全編がギャグでオチまでギャグという会場大爆笑の演劇で、優秀賞を取りました。最優秀賞ではなかった。本作の「お部屋探し」も全編ギャグものです。上演後にまず「とても面白かった」のですが、面白かった(笑った)という印象以上のものを残すことが難しいとも感じました。それが高校演劇関東大会という枠の中ではたまたま評価されなかったと考えると良いと思います。とってもよく出来ていたし、県大会を突破できなかったと落ち込む必要は何一つありません。たまたま評価されなかった、アンラッキーと思えばいい。上演は非常に面白かったし、完成度も完璧に近かった。個人的には最優秀賞です。自信をもっていい。

蛇足

たしかに高校演劇コンクールでは、高校生『らしさ』のある作品が受ける傾向にあります。ギャグでも良いのですが、何かしら主題が描かれたもの。それはたしかに物語構成として重要な要素です。オチに対する伏線の弱さを指摘する講評も理解はできます。ですが、本作は言ってみれば「とにかく面白く」を狙って作られたものであって、そこに最後落とすためのラストを付けたものです。なまじ、そこがシリアスな内容だったために伏線不足や取って付けたという点を指摘されたのだと思いますが、そこすらもギャグとして片付けてしまう(ぶっ飛ばしてしまう)という手はあったと思います。コンクールとして入賞するかは別問題になるでしょうが、少なくともオチが云々と言われることはないと思います。

それにしても、これはやっぱり台本が読みたいな。

桐生南高校「べいべー」

作:青山 一也(顧問創作)
演出:(表記なし)

あらすじ・概要

新生児室に揃った4人の赤ちゃん。一人は天然ボケ、一人は不良、一人は性同一性障害、一人は気難しい。この4人が大人に内緒でドタバタを繰り広げて。

主観的感想

脚本以外

脚本以外を先に述べます。開幕して父と母が「私たちの赤ちゃん」がどうのと言うのですが何を言っているかよく分かりません。声が聞き取れません。そもそもシーンとして必要ないと思います。完全に省略して直後の台詞から始まっても通じます。

生後数日の赤ちゃんなのに大人のように動き回り、そしておしゃべりをするという一幕もののコメディです。動きで魅せるということ、性格付けをきちんとするということ。この2つにきちんと気配りをして演じられていました。動きにほとんど隙がありませんでした。そして何より演じてる当人(役者)たちが心底楽しんで演じていたのがよくよく表れていました。

BGMの処理、アタックだけ大きめに聞かせ戻したりきちんとしていました。ただ、若干下げるのが早かったので人によってはトチったと勘違いしたかもしれません。そこだけちょっと注意です。細かいところですが医者とナースが「僕の胸に飛び込んでおいで」というシーンで一時的に大きくして盛り上げてもよかったと思います(これはコメディの典型的な音の使い方です)。

基本的にコメディなのですが、笑いに対する間の取り方や相づち(合いの手)が非常によく出来ていて、そんな細かいところまで本に書かれていたのかどうかは定かではありませんが、アレンジして演じていたのなら大したものだと思います。昔に比べて本当に力を付けてきたと思います。

「これは入賞もあるな」と思いました。結果的には入賞しなかったんですが、してもおかしくはなかったと思います。というのも、全体として非常によく台本を理解して演じており、よく審査基準となる台本の要請を満たしたかという点において、台本の求める(以上の?)完全な笑いの取り方をしていました。本当に素晴らしかったのです。

これだけ読むと大絶賛ですね。上演をみながらいつも気付いたことをメモに取るのですが、メモには上のような内容しか書かれていません。ただ一行を除いては。その一行は「30分が限界かな……」です。

脚本について

今回の上演をみて素直に感じたことは、ただ一言「台本の限界」です。青山先生の書かれる台本は好きですしコメディとして秀逸なのはいつも感服するところです。ただただ今回ばかりは残念なことに、コメディとして完成度が高まれば高まるほど中身がすっからかんになってしまいました。終盤40分ぐらいになると多少シリアスなシーンが入って、一人の両親のやや複雑な家庭環境が出されるのですが、それをラストに向けて解決しているのかと思いきや10分ぐらいで話を収束させ、違うところでオチて物語が終わります。「あれ?」と思いました。

30分が限界と書いたとおり、永遠とコメディをされても30分で飽きてきます。普通そこまでで物語の主軸に対する伏線を張っておくのがこの手の演劇の典型です。実際にこの本でも伏線が貼られていますが、後にならないとそれが伏線とわからない(伏線がわからないのは良いことなのですが、分からなすぎる)ために観客の印象としてはコメディしか残りません。

作者の青山先生のブログを読むところによれば、

『べいべー』には「大人への皮肉」が数多く含まれています。要するに、子供から大人へあかんべえをしているお芝居なんです。

なのだそうですが、であるならばそれら重要な台詞を笑いの「間」の中に書いてはダメです。いや書いてもいいのですが、笑いの「間」に書く限り笑いとしてしか伝わりません。笑いの「間」に書いて成立するものに唯一「ブラックジョーク」がありますが、ブラックという通りもっと「真っ黒」じゃないとまるで成り立ちません。

仮にこれらの皮肉が成立していたとしてどう変わっていたかと考えると、大分印象が変化しますがそれはそれでひとつの問題があります。あまりに多くのことを皮肉として使いすぎたために、話として収集が付かなくなってしまうのです。物を書くとき、ましてたった60分の本であるなら、最終的に話の軸を1点に絞り込む必要があります。4人の赤ちゃん(べいべー)のそれぞれを描くという手法には時間が足りず、主役をきちんと決め、軸を決め、そこに向けて削ぎ落とす(取捨選択する)作業がどうしても必要になります。

大分偉そうな発言になってしまいますが、桐生南の上演はいつも多かれ少なかれ「オチを取って付けた感」がします。コメディで始まり、そのうちにうっすらオチが見えてきて、最後はそのオチのゴールに向けて走るという印象です。ひとつだけ要望するなら、オチが決まったなら今度はオチから最初に向けて、後ろから前へ読んで修正(アレンジ)してほしいのです。オチに対して相応しくなかったら捨てる覚悟をしてから。それで随分違うのではないでしょうか。

全体的に

やっぱり今年も演出不在です(表記がないという意味ではなく居ないという意味)。笑わせること(能動)に対する追求、間、掛け合いは秀逸でしたが、それ以外はどうだったのかというとやっぱり弱かった。

大切なのは「観客に対して何を表現すればよいのか」ということ。演劇は残念ながらお笑い番組ではありません。もう今なら理解できると思いますが、演劇は「表現」なのです。表現とは「表したいもの」があって、それを観客と「共感」したいから生まれるのです。面白いものをみせて(観客に与えて)「笑わせる」のと、観客を引き込んで面白い気分にさせて(笑いたい気分にさせて)「笑いが起こる」のは天と地ほど違います。笑わせるのではなくて、楽しませる結果として笑いが起こる。

例えば友人と会話をしていて、突然変な顔をすれば笑うかもしれませんし、笑わないかもしれません。同じように会話をしていて、最近あった面白い出来事を話すとき、あなたはどんな風に話しますか? きっと「ああなって、こうなって、そしてこうやったら」と話すと思うのです。聞いているほうは、話に聞いた情景を想像して、あなたの話を想像の中で追体験して、そして笑います。話しているあなたと一緒になって笑います。「笑います」は「泣きます」でも「怒ります」でも何でも構いません。

演劇の本質は、観客との共感(シンパシー)にあります。表現全部の本質が共感にあると言っても過言ではありません。自分たちのことがまかなえる実力を持った今、次のステップとして観客をどうやって引き込むか考えてみてください。自分たちは一体何を表現したいのか、それを観客に伝える(観てもらう)ためにどうしたらいいのか。例え朝イチの上演になっても眠い目を閉じさせないためにはどうしたらいいのか。寒くて寒くて観てるのが辛い会場だったとしても自分たちの劇に集中してもらうにはどうしたらいいのか。「この台本を使って(文字通り利用するのです)何を表現するのか」そういう部分をすべてのスタッフと役者一人一人がもっともっと丁寧に考えてみてください。