新島学園高校「りょうせいの話」

作:大嶋 昭彦
演出:新島学園演劇部
※最優秀賞(全国大会)、創作脚本賞

あらすじ・概要

たった3人しかいない、今の時代向きではなくなった寮とそこに暮らす寮生と寮母。やってくるOB。そんな人たちの織りなす、寮でも一幕を描いた物語。

主観的感想

脚本について

顧問創作。演劇部が練習場として使っている閉鎖された寮とそこにかける想いによって作られた本とのことです。ここのところ、全国で使われたの既成本が多かった新島が創作台本で勝負してきました。内容はというと非常に秀逸です。

話は、来年閉鎖する寮で1人残って寮から出て行くことになる主人公ケンジが、あこがれの先輩にメールで告白をといったありがちなものです。しかし、それを支える登場人物とそこにやってくる元寮生の小杉、先輩二人の寮生、そして三十路近くにもなりながら寮母をしてしまっている、ある意味で「寮」に取り憑かれてしまっているそんな人たちの織りなす物語になっています。

とにもかくにも、寮という場所に対する想いをこれでもかと詰め込んだ本です。

脚本以外

幕があがって、寮の食堂が見えます。左手に壁があり手前に電子ピアノ。切れ間(勝手に繋がる通路)があって正面にも壁。左から絵が2枚飾られ、レンジが置かれ、中央の黒板の上に時計。右手にドア、カベ、そしてちょっと古びたソファー。舞台中央にテーブルが二組。こじんまりとした寮の一室を、黄色味のあるライト(電球色)で着色した、みただけで引き込まれてしまうようなセットです。講評でも述べられていましたが、雑然とさせることもなくセットに物が置かれ、寮の一室という狭くもなく広くもない空間を見せ、それでいて2組の机、ソファー、電子ピアノといった小道具を劇中で効率的に使い人物を配置しています。録画テープをもらってでも、何がどうなってるのか研究してみる価値はあります。

そして演技にも隙がまったくありません。よくある劇団(とか小劇場)の現代劇と同じクオリティ(むしろその辺より上手いです)。例えば、最初におばあさん(外部のお客)がケンジを連れて入ってきて、寮生と寮母さんがやや緊張して、おばあさんが居なくなると「はぁー」っと肩をおろして緊張がゆるむ。外部の人間と内部の人間という区別をその体の動きだけで表現仕切っています。動きに全く隙がなく、一人一人がきちんとその劇中で動いています。

見事としかいいようがないのですが、いくつか気になったところ。まず講評で指摘されてなかったのが不思議だったのですが、すべての台詞が早口です。現状でも成り立つのですが、あと少しだけ「間」を取って話した方が良いです。動きやその他の演技・演出のクオリティに対し、台詞の「間」だけが負けています。原因は明らかで、台本の詰め込みすぎです。60分の上演時間に対して、やや台詞が多すぎます(無論間を取るためには少し削るしかありません)。そのために、演技のメリハリもいまいちの面があり、台詞に対する強弱が少なくなっています(無いのではない)。特に、小杉と寮母はもっと「大人の間」で台詞をしゃべならないと不自然であって、本来オーバーでゆっくりに話すべき台詞(例えば「えっ、何のために学校行ってるの?」とか)があまり生きていませんでした。

もう一つ気になったのはシリアスシーンが(全体のクオリティに対して)やや甘ということです。この辺は講評で指摘されていた「ケンジの恋心やその背景があまり見えてこない」ことも関連してくると思います。言ってしまえば、この恋話は寮という主題を盛り上げるための小道具に過ぎないわけですが、小道具だからっておざなりにしていい理由にはなりません。このお話に深みを持たせるエピソードや台詞を足すのは無茶ですが、演じ手の動き・動作を突き詰めるだけでそれを表現することは十分に可能なはずです。コウタとケンジの対立というこのお話唯一のシリアスシーンを軽く流すことなく、見せ場であることを意識して、もっともっと登場人物の気持ちを突き詰めることは必要でしょう。

全体的に

今まで観てきた新島の演劇の中では一番の、全国に行っても恥ずかしくない演劇です。関東という試練がないのは残念な気もしますが、あっても多分突破していただろうと思います。

新島自体の演劇のレベルは去年・一昨年と大きく変わっているか言われれば、進歩しているものの(元が高かっただけに)そこまで大きく変わってはいないと思うのです。ですが、今年はテーマを理解して演じていたことが大きかった。きちんと「寮という場所が主役なのだ」ということが、役者もスタッフもみんな意識していたことがきちんと伝わり、それこそが例年との違いなのだと思います。例年の新島の最大の失敗は「テーマに対する理解不足」でしたから(話の舞台が普段慣れ親しんだところであるといことも大きいのでしょう)。

観客を見事に舞台に引き込んで一体となっていました。寮への愛情の勝利ですね。

大泉高校「総合的な学習」

作:江原 慎太郎(顧問創作)
演出:(表記なし)

あらすじ・概要

総合的な学習の発表練習。さやはお葬式のマナーについての発表練習を友人達と一緒に行っていたのだけど……。

主観的感想

ぱっと幕が開いて、左手にお葬式のマナーという垂れ幕。その右に発表用の台(ミニ教卓)。中央に花に囲まれた台、右側にはパイプ椅子で生徒たちが並びます。役者がそのまま本名で登場するという当て書きされた台本です。どうやら、シーンごとに順番に積み上げていった感じです。最後にさやが自殺しようとして、それを止めて終わるのですが、全体的にぱっとしません。新島のあとだけに、その差は余計に大きく映りますね。

台詞が早口でキンキンして何を言っているのかよくわかりません。みんなテンションを上げちゃったので抜けができてないと思います。「止め」や「間」はよく研究して積極的に使っていましたが、メリハリは使えていませんでした。強弱やメリハリをうまく使うようにするとうんと良くなります。遺書の朗読や死にたいする考え方、捉え方、気持ちの動きの無理など色々と気になるところはあるのですが、ひとつだけ大切なことを書いておきます。

話を聞いていない生徒たちという様子が非常によく出来ていました。ワイワイギャーギャーのリアルな女子高生がよく表現されています。そこが一番の問題でした。リアルすぎて劇になっていなかった。講評で「もし自分の高校の制服を使っていたのなら、それは絶対変えた方がいい」という指摘がありましたが、それもおそらく同じことを言っています。当て書きであまりに素で作ってしまったために、劇になってない。演じていない。制服もいつもの制服、おしゃべりもいつものおしゃべり、ただ場所が舞台の上になっただけ。普段の雑談を観客にみせたところで面白いとは思ってもらえない。普段の高校生活をビデオにとって垂れ流しても誰も楽しんでもらえない。

とても伝えるのが難しいのですが、まず演じることからはじめてください。観客のために演じてください。ありのままの自分たち見てもらいたい気持ちは痛いほどよく分かります。けれども、今のままでは観客はあなたたちのことを見てはくれないのてす。

お昼休み。みんなで食べる昼食。自分のこと、今日あったこと、昨日見たテレビ、昨晩届いたメール。友人と雑談をするとき、あなたは友人の方を向いて話すはずです。あんまり興味のなさそうな目をしていてたら話を切り上げるかもしれないし、興味津々で「それでそれで」と返してきたらテンションをあげて話すと思うのです。今度は、観客の方を向いて演技をしてください(舞台上で実際に客席を向けと言っているのではないですよ)。どうしたら観客の方を向いて演技ができるかよくよく考えてみてください。そうすると観客もあなたたちを見てくれるようになります

桐生高校「未定」

作:キリ平
演出:遠藤 有希子

あらすじ・概要

無茶苦茶を行う大学当局に対抗する学生たちの物語。学園祭の実行委員を依頼されたが大学批判や政治などに関する出し物はすべて禁止された。学生運動をモチーフとした、学生と大学の戦いを描いています。

主観的感想

脚本について

幕が開いて最初に「反対ー、反対ー」というシュプレヒコールから始まり、「何について反対なのか」と思ったあとに「授業料値上げ反対」といった台詞が出されるあたり、遠くの情景から近くの情景へという台詞回しがよく出来ていました。

メインの舞台は大学付近の喫茶店。装置もよくできていてムードがあります。話のメインはこの喫茶店です。もう1つ「大学側」として黒服みたいな男が出てきて「○○は禁止とする」と言ったり「大学当局へ反抗するものはみんな排除する」といった具体化された『敵』のシーン(スポット)があります。その他、登場人物がゲームオタクというフリがあり、それを説明するために回想シーンがあったりします。そういうの以外は全部喫茶店で話が動きます。

はっきり言って喫茶店以外のシーンはすべて不要(邪魔)です(最初のシュプレヒコールは除く)。それらのシーンはほぼすべて状況を説明するために置かれているのですが、そういうものは登場人物達の会話から状況が推測できる程度の情報を出せば済む話です。本を書く人が陥りやすいのですが、物語の状況を詳細に決めることは大切です。しかしそれを直接的に説明することは全く余計なことです。前口上的なものは要りません。このような背景状況は、物語の展開に必要最低限の部分だけ登場人物達の会話に滲ませるとムードが沸き、少し謎めいた背景世界に対して観客の想像力が掻きたてられます。観客を作品世界に引きつけることになります。

演劇では場面転換に時間がかかります。自分たちの上演を録画したビデオがあれば確認してみるといいのですが、作者のあなたが想像したように、綺麗にA/B2つのシーンを挟んで画面切り替えが出来ていますか? 最初に脚本を書いたときの想像通りスムーズに転換ができていますか?

あともう1つ。このお話では結局「敵」を倒していません。基本構成は勧善懲悪(正義が悪を倒す)にも関わらず悪を倒しません。では悪に負けたかというとそうではありません。話を「敵」と「私たち」という形で転がしながらその部分に明確な決着を付けずに終わります。今の、主人公が未来へ向かっていくというラストが悪いというのではありません。それはとても良いのです。けれども同時に「敵」と「私たち」の間に決着を付ける、または決着に向けた未来への標(しるべ)をみせてくれないと、観ている方としてはフラストレーションが溜まってしまいます。

会話の処理やシーン作りがよく研究されうまく書かれているだけに、そういう部分が本当に勿体ないなと思いました。

脚本以外

カウンターのある喫茶店、テーブルが2組。ドアは存在しないのに、ベルをならすことであたかもあるように見える。一生懸命苦心して作り上げた「喫茶店」というリアリティがよく出ていました。椅子がやや嘘っぽかったですが、それは別として限られた中での努力と熱意がとてもよく伝わってきます。登場人物を色づけ(性格付け)して、人物たちが会話をするという見せ方もきちんとしたものでした。基本的なことはきちんとクリアしてきています。

しかしながら、完璧かと問われるとそうでもなく。本のアラの方が目立ってしまい講評もほとんどそこに終始していましたが、もうひとつ登場人物に実在感がありません。ひとつひとつの台詞をきちんと言うことに注力していたのですが、その先の「その人物の思考、普段の生活」という部分までは見えてこない。

実力はあるのですから、もう一段階ステップアップ。台詞をきちんとこなそうという部分の先に、役者自身による「この人物はこういう性格の持ち主」という理解があり、それを観客に向かってどう表現しようというと考えると人物のリアリティがぐんと増します。台詞上の性格付け以上のもの、例えば必死さや一生懸命さ大雑把さに投げやりなところが表現できるようになると、あたかもそこにその人物が居るように見えてきます。

地区公演を含め、本当にいつも一生懸命作ってきて上演しているのですが、今一歩というところで勿体なく感じました。

桐生第一高校「鵜の話~「鳥の物語」より」

原作:中 勘助 脚色:則巻 霰 潤色:山吹 緑
演出:岡田 愛美
※優秀賞(関東大会)

あらすじ・概要

昔々。ある村に迷い込んだ宮遣いの藤原は海女との間に子供を授かった。しかし藤原は、竜族から玉を取り返さなければならない。母である海女は決意をし「鵜」(鵜飼いの鵜です)と共に海へと竜族のもとへと行き玉を取り返したが、母は帰ってくることはなかった。やがて月日は流れ……

主観的感想

桐生第一念願の県大会、そして同時に県大会突破。音と光と朗読でみせるいつもの朗読劇です。数多くの部員を生かし、集団の動きでみせていました。

全体に粗いところがあります。嵐や雨音をSEとして使っているのですが、その音が大きすぎて台詞が聞こえません。鵜たちが踊りを見せるのですが、わざわざ見せるほど綺麗ではありません(揃っていません)。鵜が語り手になるのですが、早口で何を言ってるかよく分かりません。もっと子供たちに読み聞かせるよう話してみてください。全体に滑舌と発声がよくありません。ゆっくり話すだけでも聞き取れるようになります(13分も上演時間を余したのですから)。講評で姿勢が悪いせいであると指摘されていました。とにもかくにも台詞が聞こえないことが一番の問題ですから、関東大会までに必ず改善してほしいところです。

装置は海前の岩陰という感じで、中央に左から右まで台が渡され、その奥に青いホリを使って海を表現していました。しかしその手前にある金枠(?)が一面に置かれていて、柵ということだと思うのですが、時代設定からして金枠はどうなのでしょうか。布を使ったロープやワラの縄とかの方がそれらしいような気がします。竜族のシーンでは、その枠を90度傾けて飾りを見せ「違う場所」ということをアピールしていたのですが、あまり説得力はありませんでした。もう少し考えてほしいです。

装置の転換や場面転換で暗転して黒子を動かしていたり、スポットの光を消したりというシーンがいくつかあったのですが、完全に消える前に役者が動いてました。これは頂けません。黒子が見切れていたことも多々ありましたが、後のシーンで黒子をみせてシーンを構成しているので、最初から黒子は存在しないものと割り切り暗転しなくても(必要最低限の暗転にすれば)よいと思います。

ずいぶんひどい感想ですが、ダメだったのではなく演劇全体がハイレベルだっただけに粗が目立ってじつったのです。大人数で凝った衣装を使い(きっと相当手間がかかったと思います)、人外である「竜族」をどう表現するかはかなり難しいのですが、衣装や小道具に支えられ説得力を持っていました。シーン構成も考えられていて、どれも丁寧に作り込んできています。

最大の魅力は何と言っても話のパワーで、やはり海女の子供が母訊ねて鵜のところに来るシーンなどはうるっときました。この時系列(話)の組み立てもよくできていて、母である海女が玉を取り返しに行くシーンの一番よいところだけラストまで引っ張っています。このシーンの説得力はさすがでした。

粗を磨けば見違えると思います。そのためにはとにもかくにも台詞をきちんと届けること。そして可能ならば台詞にメリハリ(強弱)をつけること。気持ちの変化を台詞に乗せること。それが大切ではないかと思います。

伊勢崎清明高校「幻私痛」

作:小野里 康則(顧問創作)
演出:佐藤 杏子

あらすじ・概要

がれきの山で目覚めた女。人は誰も居ない。震災でもあったのだろうか……人を探して数日、やっと男を見つけるのだった。

主観的感想

脚本について

顧問の創作脚本です。地震(震災)後というイメージを直接的に表現せず、状況を説明するには遠い台詞から徐々に震災ということを説明するあたりきちんと基礎を押さえた台詞回しがされていました。

話は「ガレキのイメージ」とそこを彷徨う男と女、そして「自分たちは存在するのか」という実在への疑問から街の見る夢にまでたどり着く悲痛な話です。おそらく戦争か都市がひとつ消えてしまうような大災害をイメージして作られています。

しかしそれにしては台詞回しが軽妙であって、命あるモノが存在しないという背筋が凍るような状況がなかなか描き切れていません。必ずしも本のせいとは言えない面はありますが、情景をあまりに無視した台詞回しでシニカル(皮肉)にすらなっていないところに大きな問題があります。この作品(主題)は大枠としての「滅亡感」や「破滅感」があって、そこに唯一の「生」(希望)である男女が描かれてこそ成り立つものであり、大枠としての悲壮感を描くことなく登場人物の「生」にばかり着目しすぎた面は否めません。

例えば、最初から男女を登場させ、男を悲壮的な考えの持ち主(「暗」)、女を明るい未来的な考えの持ち主(「明」)と設定した上で、対話させつつ、街という状況から対話の材料を与えるという話作りならば、まったく違って見えたと思います。1つ1つのエピソードも適当に繋げたという疑問が拭えません。

「どうしたら(話の大前提である)破滅を描けるか」(伝えられるか)を台詞回しからも、エピソードからも、もっと丁寧に突き詰めてほしいと感じました。

脚本以外

台詞もそうですが、演技にも悲壮感がまるでありません。世界観である「破滅した世界」に居たらどういう気持ちになるかという思考が不足しています。役者が理解した気持ちしか観客には伝わらないのですから、その点は残念でした。また台詞が多く、対話の間が悪くなっています(「間」が無い。間を作るための時間的余裕がないぐらい台詞が多い)。気持ちの理解が不足しているため「命あるものの音が、一切消えてしまったのよ」といった台詞がどこか浮いて聞こえます。全体的に台本に台詞を言わされているように聞こえてしまいます

男はガレキの下から救い出されるとお腹に金属の棒が刺さっていました。しばらくしてから劇中の登場人物達が気付くのですが、観客は助けられた瞬間から気付いているため、理解にタイムラグが起きます。何か狙ったものならまだしも、コメディとしても成立していなので微妙な感じになってしまいました。

あれこれ言ってしまいましたが、装置のガレキ感はよくつくってあったと思いますし、役者もとても頑張って(精一杯)演じていました。その一生懸命さが気持ちのいい劇でした。少人数で大変だと思いますが、役者とスタッフが両方一緒になって「本読み(気持ちの理解)」にもっと力を入れるとうんと良くなると思います。