桐生高校「DisHarmony」

脚本:山本 雅之(生徒創作)
演出:小林 祐佳(兼 主演)

あらすじ

ある日の帰り大谷先生(女)は奇妙な露天商(お婆さん)に呼び止められる。「何か買っていかないか?」と。そして「願いが叶う本」をタダでもらって帰り、その本の開けると悪魔が現れた。悪魔は「誰か一人を殺す」という願いを叶える本なのだと、大谷に説明する。そして「誰かを殺さなければ自分が死ぬ」のだと。大谷は学校の生徒、教職員たち、彼氏に対して少なからず恨みを持っている(ことを回想する)。

でも誰かを殺すなんて選べない。「さあさあ、恨みがあるんなら誰を」とゆさぶりをかけられると、最後に悪魔を指名するのだけど……。

主観的感想

【脚本について】

悪魔のささやきと、日頃の恨みというありがちの構成です。ありがちということは無難ということで、それ自体問題はありません。ですが、いちいち回想するたびに暗転するので少々テンポが悪いことと、出てくる登場人物が「全部が全部ステレオタイプ」(いかにもありがちなキャラ立てで現実には到底いそうもない感じの人物像)なので、どうにも笑い出したくなってしまいます。

ステレオタイプな人物を使うなとはいいませんが、大谷以外全員ステレオタイプにされてしまうと、感情移入しずらいと言いますか、話全体が陳腐に映ると言いますか、もうちょっと考えようね……と感じてしまいます。周り中から追いつめられた境遇を出すという(シナリオ構成上の)方向性は全く間違っていませんが(むしろそう構成したことは十分に評価出来ますが)、そのための手段をかなり安易に選びすぎたかなと感じました。(参考:創作脚本を書かれる方へ

【脚本以外】

シナリオ上の(要請する)人物がステレオタイプなのでもちろん演じる方もそうするわけですが、実際にはそのステレオタイプを演じきるほどの演技力もないために、観ていて苦笑いしかできないという状況でした。もし相当の演技力と迫力をもってして演じきれば、それはそれですごいものになったとは思いますが……。

3幕や5幕で内幕を引いてその裏で舞台の転換を行っているのですが、その作業音が「ガラガラ」「ゴロゴロ」(幕の前で劇が進行中に関わらず)聞こえきます。これはひど過ぎます。最初のシーンで大谷先生がバッグをもっているのですが(おそらく帰宅途中)、その中身が空であるように見えます。つまり帰宅途中らしさがありません。また大谷先生が「~だわ」「~わよ」「~わ」を多用するのも不自然です。

【全体的に】

あまり深く考えることなく、こういうときはこう、ああいうときはああ、と先入観だけで劇やシナリオを組み立ててしまったという印象を受けました。もっとよく調べて、考えて、他の(うまい)演劇を参考にして、という作業をすると改善されるのではないかと感じます。そういう意味で総じて勉強不足、演技についても努力不足といえるのではないでしょうか。

審査員の講評

【担当】石村
  • 声がアニメの発声のような感じがする(光瀬氏)という意見がありました。距離感がなくて相手との距離が10cmでも5m同じような声の出し方をしていた。
  • 照明の外で演技してはダメです。位置を失敗したら照明の中に移動しないと。
  • 舞台装置があっさりしすぎ。
  • 最初のシーンで黒幕に黒い衣装というのはコントラストとして少し考えた方がいいかと。
  • ストーリーとしては大谷先生が徐々に追いつめられていくというものですが、勢いのようなものがあって真に迫る。
  • 大谷先生が振られた男を恨んでいたが、あんな男だったら別に振られてもいいのではと思った。
  • 最初の老婆と悪魔が(役者は同じ人でしたが)同一人物だとはっきりわかる構成でもよかったのではないか。
  • 最後の方の悪魔が大谷先生にとりつくシーンで暗転してしまうという処理は安易な感じがした。
  • 最初の露天が置いてあるものが庶民的な感じがした。全体の装置や衣装もややチープに感じた。
  • 中幕で舞台を分けたり、サス(サーチスポット?)をあてて独白するというのは安易であるけど、安易いうことは分かりやすいという面もある。
  • ただ、芸術性としては安易すぎると落ちてしまう。
  • 音響が印象に残らなかった。

渋川女子高校「青の壁を越えて」

脚本:町田 愛実(生徒創作)
演出:町田 愛実(兼 主演)

あらすじ

仲良し(?)女子高生3人、由紀は歴史オタ、霞(かすみ)は引きこもりキャラ、望(のぞみ)は活発な感じの子。帰り道、由紀は事故にあいそうになって電柱に頭をぶつける。そしてそのまま、西ドイツの諜報部員(?)のペコが憑依(?)してしまった。そんな3人の巻き起こすおかしな学園生活。その中で、ペコはマリアを探すのだけど……。

主観的感想

【脚本について】

ライトな学園コメディです。霞という引きこもりキャラが、日本引きこもり協会(NHK)ならぬ世界引きこもり協会の教祖という位置づけのギャグキャラなのですが、これがまたとてもいい味を出しています。笑いの半分以上はこの霞という登場人物の力ではないかというほど、見事な笑いを導いてくれます。そして、時代錯誤なためほふく前進をするようなペコ(でも見た目は女子高生)、その二人に振り回される望というのが基本の構図です。

この3名の人物配置が実にうまい。コメディに走ったときによくある失敗は全員ギャグキャラにしてしまうために基準が分からなくなり(おかしいことがその舞台の中での普通になってしまい)、全く笑えなくなってしまうことです(実際過去の県大会で見られました)。望という普通な人物を一人置くことによって、霞やペコの異質感がより際だち笑いに結びつけていたと思います。

それに比べてストーリー構成の方は問題があります。まず戦中ドイツのペリという人物を持ってきたことに作品ムードとの大きなギャップがあり、それは良いとしても処理の仕方がまずい。コメディに「コメディだけだと話にならないので無理矢理お話をくっつけました」という印象以上の何かを受け取るのは現状では難しいと思います。なぜなら、ペリの思いを描くなどの処理がなくドラマが上辺だけで進行するからです。

もしパンフレットに書かれた「越えられない壁なんてあろうか」というものを比喩的テーマとして解釈するならば、壁を越えられないということをもっと強烈に印象づけなければなりませんし、メイン3人の中に比喩的な壁(越えられないもの)を設定する必要もあるかと思います。その辺、明らかに考察不足です。(参考:創作脚本を書かれる方へ

【脚本以外】

メインの舞台設定がおそらく廊下だと思われるのですが、3枚のパネルがあり左右が「ハ」の字に曲げてあって、中央が窓、それぞれのバネルの間には空間があります。はっきり言って廊下とは飲み込めませんでした。中央のパネルは教室のドアにもみえましたし、ハの字に曲がっていることからも廊下とは捉えられませんでした。またパネルも(6尺なので)やや低いように感じました。空間も出入り口に見えたのですが、途中暗転して退かすための空間省略の意味合いだったようです。もう少しどうにかしてほしかったところです。

演技ですが、最初のほうは緊張していたのか、体が暖まっていなかったのか若干聞き取りづらい台詞があったのですが、時間が経つにす声も通ってきて、また3人の人物もよく味が出てて楽しめました。特に教祖様キャラ(霞)がよい味を出していて、面白かったです。細かいことですが、霞が途中で「さっきの謎かけの答え」といういうのですが、これは「昨日の謎かけの答え」の誤りだと思います。劇進行上は「さっき」でも劇中では「昨日」ですから。この手のミスは以外に見落としがちなようで、毎年1校ぐらい見かけます。

【全体的に】

もっと間をうまく使えばもっと笑えたかな、という感じはするもののこれで十分とも思います。そういう意味で(今年一番)笑わせて頂いた劇でした。ですが、心理ドラマとしてはやはり演出面・演技面からも不足していて、結果「あー面白かったね、教祖様」の一言で片づいてしまうのは少々残念です。ドラマをみせるとこと、構成することをもう少し考えてみると、もっと良くなると思います。

審査員の講評

【担当】原澤
  • (タイトルの)青の壁の壁というのはベルリンの壁でいいのかな?
  • 幕が開いたとき地味な舞台だなと思ったが実際にはそうでもなかった。
  • 渋女ってこんな学校だったけなと思わせるほど、引きこもりキャラは強烈でした。カスミはどこかで会ってたんじゃないかなと思うぐらいに。
  • 人物の作り分け、台詞のやりとりはよく出来ていた。
  • 登場人物の掛け合いはよかったが、中後半までそれで引っ張り切れたかと言われれば疑問が残る。
  • 全体として憑依の話でどう決着するのかと思いましたが、ラストはよく分からなかった。よくわからないことが狙いだとすれば、どっち付かず。(編注:おそらく最初のシーン=ベルリンからペリの心が時空を越えて現代に来て、また再び戻っていったというラストだと思います。「想いは時代も壁も越えたのだ」というテーマではないかと思います)
  • 台本には勢いがあるが、舞台はもやもやとして終わってしまった。
  • ペコと彼女(マリア)の間の関係がよく伝わってこなかった。
  • 渋女の生徒って面白いなという感じで、どうせならもっと徹底的にやってほしかったかなと感じた。

高崎北高校「ちょっぴりシアワセ」

脚本:ながみね ひとみ
演出:黒沢 有香(兼 主演)

あらすじ

十子(トウコ/女子高生)はクラスメイトの百恵に相談を持ちかけられる。「学校、辞めるかもしれないんだ……」。十子の家に東京へ行っている姉が帰ってきた。姉はすっかり東京モンになっていたのだけど、翌日にはすっかり田舎の姉に戻っていた。そんな姉に「彼氏元気?」と問いかけるがはぐらかされる。

また十子には気になる友達近藤君が居た。姉はそんな十子に、ディズニー映画のチケット(2枚)を渡す。誰かと見ておいでよ……と。そんな姉とクラスメイトの百恵の恋愛模様、そしていろいろな決断を聞きながら、十子は自分の幸せについて考え始める。 。

脚本について

はりこのトラの穴で公開されている脚本です(書いた人のblog)。ネットの脚本は結構よく使われるのですが、今年はこの1校だけでした。上演をみてすぐにネット脚本と分かってしまう、そんな感じの作品です(昨今の高校生風の作風)。何と言っても暗転回数17回、イメージとしては2つのシーンを細切れにカットとしてインサートする(挟む)感じですが、演劇でそれをやると無理が出ます。4分に1回は暗転していることになりますから。映像作品だったならよかったかもしれません(それでも少ししつこいかも)。

主観的感想

夏(夏休み前)という設定で、一目「あの服装で寒くないのかな」と演劇とは関係ないことを心配してしまいましたが、その寒さなどみじんも感じさせない演技をみせてくれました。パンフレットによると「8人という少ない部員で頑張った」とのことです。

演技にやや不安が。ギャグキャラであるお父さんは演技力の方がかなり……。全員、声のトーンや間ということ、その人物になりきって気持ちで演じるということをするとうんと良くなると思います。(これも毎年書いてるような気がしますが)驚いた演技をするときに「あー驚いた」というのは嘘の驚きで、「驚いたときにはどんな感じの気持ちになるだろうか?」という自問自答から入ってその結果として出た態度は本当の驚きです。演技というのは、台詞や動作の上辺をなぞる行為ではなく、なりきってこその演技であるということを忘れないようにしましょう。

演技、演出。細かいところですが、(これも毎年言っていますが)例えばビールやジュースの缶。それを持つ手が明らかに軽そうです。中身が入っているように見せようという配慮が足りません。あるシーンで母親が部屋から出て行くときにふすまを開けるとそこに姉が居て、すれ違いになるのですが、姉も母親も微塵も驚きません。よく考えてみてください。日常生活でドアを開けてその前に誰か居たら確実にびっくりしますよね。そういうことに対する配慮がないのです。発生も基礎練習も、感情表現も大切です。ですが、そういう登場人物の心境を考えなくては演技というものは始まらないのです。

暗転の主な要因である、十子と百恵の対話(ダイアローグ)ですが、これはいちいち部屋であるセットの前に椅子を持ってきて行い、そのシーンが終わると片づけていました。セットの左右が開いているのですから、そこに椅子を置きっぱなしにして照明で手早く切り替えるなどの工夫をしてもよかったのではないかと思います。

【全体的に】

少ない部員でもよく頑張っていましたし、楽しめるものにはなっていたのですが、感情表現についてはさらに頑張ってほしかったというところです。シナリオは十子が近藤君を通してちょっぴり大人になるものなのですから、そういう意味での成長前の十子の迷いや悩み、はっきりとしたものではないにしろ「恋愛ってなんだろう?」「シアワセってなんだろう?」みたいな漠然とした不安のような興味深さのような好奇心のような、そういう部分が(前フリとして)描き出されるとラストが生きてくると思います。その点、かなり不足しているように感じました。

つまり演出的な配慮不足。この点、去年の全体感想とかにも書いてあるので、(手前味噌ですが)参考にしてください。

審査員の講評

【担当】光瀬
  • 舞台装置(居間のセット)が具体的であるから、演劇としてはリアリティが求められる。よって日常を見せる必要があるのですが、立ったまま携帯で話すのは動きを見せるためだったとしても、それでもリアリティとして疑問が残る。
  • 全体的に日常っぽさが足りなかった。例えば洗濯物を畳みながら話したり、おかしを食べながら話したり、携帯メールをしながら話したりというものを取り入れればもっと日常感が出たと思う。
  • 感情の振れ幅とリアクションの振れ幅にギャップがあると疑問を感じてしまう。大きなぬいぐるみ(?)を観て「ああ驚いた」というのだけど、本当に驚いている感じがしない(編注:記憶が曖昧です。違ってるかも)。
  • この脚本は恋愛における様々な側面を見せるものであるけども、そういうものは実感があるかないかすぐに分かってしまう。例えば、十子の姉は「好き同士で仕方なく別れた」と言っていたがリアリティがないし(実感が伴わない)、百恵は中絶の映像を見たと言っていたが本当に見たのか疑問が残る。
  • 途中何度も出てくる十子と百恵のシーンでは、十子はリアリティがあるのに対し、百恵にはリアリティがなかった。「私のこと信頼してる?」という言葉には重みがなかった。百恵は十子と違い自分の道を歩み始めている、母になろうとしているということでそういう強さがかいま見えてもよかったと思う。
  • 十子がいう「百恵が私の知らないところへ行っちゃった」という台詞はよい台詞だと思う。
  • 近藤君は十子にとって彼氏未満なのだけど、そういう相手に対してはもっと優しくなるのではないか。
  • 近藤君に彼女がいると分かってがっかりするシーンでも実感があまり伝わってこなかった。
  • 全体的に、実体験+誇張という形で演じるようにするともっと良くなると思う。

桐生南高校「通勤電車のドア越しに」

脚本:金居 達
翻案:青山 一也(顧問)
潤色:金居 達
演出:桐生南高校演劇部

あらすじ

発車間際の電車に飛び乗った黒木(OL)は、突然開いた反対側のドアに首を挟まれてしまった。電車も止まったまま。たまたま一緒に乗り合わせた後藤(女性部長)と井出(部下/女性)はドアを開けようとするが開きそうもない。そんな中やりとりされるコメディ。車掌を呼びに行く上司と部下、そこへ通りがかる小学生。やがてやってきた車掌は扉を開ける気が全くなく、自分の話をして去っていってしまう。やがて先ほどの小学生もやってきて……。

脚本について

脚本を書かれた金居達さんは(パンフレットと漢字は違いますがこちらが正しいようです)高校時代に県内で演劇をなさっていた方のようで、現在は劇団を主宰なさっているようです。またこの本は静岡の浜松海の星高等学校も上演しています。内容的には「コメディ+ちょっといいお話」という演劇のひとつの定型です。

主観的感想

昨年度の地区発表会から期待していた(想い入れの強い)桐生南ではありましたが、心苦しいながら正直なところ期待はずれだったと言わざるを得ません。なんと言っても致命的なのはメインの女性3人の声がよく聞き取れなかったところ。ホールが反響しやすいこともあるとは思いますが、通常でも聞き取りにくく、まして2人以上台詞がかぶると何を言っているのか全くわかりません。頑張って発声しているのはわかるのですが、(講評にあったとおり)そのせいもあって似たり寄ったりの声質になってしまい声の色がなかったのが一因かもしれません。

コメディの間や止めを意欲的に使っていて、この点だけでも大きく成長していると評価したいのですが、その一方でせっかく考えたコメディも声が聞き取りにくいことから内容の理解がワンテンポ遅れてしまい、笑い損なう=笑う要素を理解したときには先に進んでいて笑うに笑えないという事態に陥ってしまいました。とにかくハイテンションで笑わせっぱなしにしてやろう、という意気込み(方向性)は間違ってないと思うのですが(そうしてこそ成り立つ劇だと思います)、そこが失敗してまったせいで劇自体の印象が悪くなってしまったことは否めないと思います。

舞台装置は電車という大がかりなものをよく作り込んでいました。月夜もうまく(綺麗に)表現したなあという感じで好感を持ちました。一方で、装置をあれだけ作り込んだからこそ車輪が気になるという声も聞かれましたし、車両の空間が妙にだだ広く感じたりもしました。動作(アクション)の関係もあるのでしょうが、もう少し車両の見える部分を狭めてこぢんまりとさせてやるほうが、劇に味が出たように思われます(例えばそうすることでほかのお客が見えない部分に居るという演出も使えたと思います。それが必要かは別として)。

途中小学生が電車の前を通るのですが(見た目が見事な小学生っぷりでした)、そのとき通った場所は「駅のホーム」なのか「線路脇の道路」なのかよくわかりません。黒木は電車に乗り込んだあと首を挟まれたわけですから、そのまま駅に停車したまま動いてないと思われるのですがOLが乗り込むような駅が片側ホームの田舎駅……? というのもやや疑問が残り、その辺気にし始めると疑問だらけになってしまいます(完全にフォローするのは無理ですが)。途中、車掌がダンスをやってたという設定が出てくるのですが、その割にうまくなかったりするのも笑いのネタにするなどのフォローがほしかったところ。

【全体的に】

ラスト10分はお約束の心理劇で幕を閉じるわけですが、この辺も伏線不足。もっと前半から抑圧なり悩みなりの描写がほしかったところです(笑いに走りすぎ)。繰り返しになってしまいますが、声が聞き取りにくかったせいで演出意図をくみ取ることも(まして考察することも)難しくなっているように感じます。上演時間60分ギリギリ(またはオーバー?)で、去年もそうだったと思いますが若干詰め込み過ぎではないでしょうか。おそらく演技を付けていく段階で量が増える傾向にあるのでしょうから、脚本の段階で上演時間より少なめにしておけば、演出(演技の付け方)の幅も増えるように感じます。

と色々言いましたが、開かないドアが間違って開いたりしないかとハラハラしたもののきちんと表現されていましたし、笑わせどころはきちんと押さえていて去年と比べたらすごい成長です。よく頑張ったと思います。個人的なことですが、やはり地区大会を(桐生南だけでも)見に行くべきだったのかも知れません。ひとつだけ(生徒に)アドバイス。「こうしよう」「あうしよう」という前向きな思考だけでなく、時に「これでいいのか?」「何か足りなくないか?」と立ち止まって振り返ることも大切であると心に留めておきましょう。今後も期待しています。

審査員の講評

【担当】光瀬
  • 舞台装置を大変よく頑張りましたが、頑張ったところは目立ちます。今回の横長装置は一番目立たせなくてはいけない黒木が正面を向いていて目立っていなかった。装置は演劇のためにあるのにその役目を果たしていない。そのせいで、途中黒木の状態がエロいという話があったが観ている方には少しもエロくなかった。正面を向けずに斜めにしてはどうだったか。
  • 車掌の回想シーンでは(コメディなのだから)電車から飛び出してしまってもよかったのではないか。
  • ドアの開閉も、手で動かしているのが見えているのだから、暗転しないでそのままやってしまっても良かったのではないか。
  • ホールの特性もあるのでしょうけど、年代の近い3人の女子が同じように頑張った声を出してしまうと、声質が似てしまって聞き分けられない。例えばまき(編注:小学生役)が裏で話している声はまったく分からなかった。声の音色を出すようにした方がよい。
  • 車掌が早口で説明を言うときは、感情を入れないで「敢えて棒読みにする」という演出もあったのではないか。
  • 演技のテンポが一定で間の変化がない。もっと間やトーンやテンションなどに変化を付けないと単調になる。
  • せっかくギャグをやっているのですが「とりあえず触っておく」の「とりあえず」で登場人物の方が笑ってしまうと、観客は笑えなくなってしまう。
  • 黒木が母になったときの変化がない。職場の顔と母の顔というように劇中で人物像が変化する場合は目立つので、この劇の場合は「母になった黒木」というのを目立たせるとよかったのでは。
  • 扉(ドア)を開けようと力を入れるときのふんばる声で電車のアナウンスがかき消されるというシーンがあったが、実際には聞こえない部分のアナウンスを飛ばして(消して)いた。そうではなく、実際にアナウンスがかき消される方が(演劇としての)リアリティがある。本当に起こっている現象は演技していることよりも大変よく目立つので、そういう部分では本当に起こっているというリアリティを出すべき。
  • 扉を開けようとするとき、本当に力を入れているのがよく分かって、この点は良かった。
  • 途中、車掌の話と関連してダンスがあるが、どうせなら黒木が踊れないようなダンスにして、一人話に置いて行かれている構図を出す方がよかった。
  • 黒木が最後に謝る理由がよくわからなかった(観客に伝わってこなかった)。

新島学園高校「開運ラジオ」

脚本:平田 俊子
潤色:新島学園高校演劇部
演出:(表記なし)

あらすじ

突然現れたエレベータ、そこの乗り込む少女は「9825階」を指定した。エレベータ(ごっこ?)からおばあさん、そして子供たちところころ変わる情景の先には何があるのか。

脚本についての説明

市販の劇曲集に収録された脚本を使用しているようです。検索すると、結構多くの劇団で上演されています。どうやら、ラジオのチューニングのようにめまぐるしく変わる情景から何かを描き出す作品のようです。「ようです」というのは上演を見た限りでは伝わってきませんでしたということです。

主観的感想

桐南同様に、声が聞き取れない。エレベーターガール(別役ハルエ)、昼子、2人目のお婆さんが特に聞き取りにくく何を言っているのかわからない。全体的に仕上げて来ているにも関わらず致命傷です。新島は、昨年度末の公演から期待していたのですが、スタッフを見比べてみると大半が居なくなっている(=卒業?)と、つまりはそういうことのようです(引き続き居るのは3名のみ)。で、おまけに演出不在と……。

本は難しい本です。その代わり、きちんとやれば上位を狙えるそういう本だと思います。ということはそれ相応の意気込みがあった証拠であって、至らない点は当人(昨年度を知っている人たち)が一番よく分かっていると思いますが、絶対的に演技力不足、そして演出の欠如です。まず始まって野原のエレベーターという設定なのですが、パンフレットを読まない限り「野原」ということは全く伝わってきません。最初のエレベーターごっこも、本物のエレベーターが「ごっこ」という言葉とともに消失したのか、本当にエレベーターごっこだったのか分かりません。とにかくあれもこれも全部分かりません。台本を読んでいませんから推測になってしまいますが、この本は現実(リアリティ)と非現実(バーチャル)の微妙なライン(境界)を保たないと成り立たないように感じるのですが、だとすればその点(上演する側がきちんと)理解していたのか疑問です。

【全体的に】

台詞が聞こえないことに輪を掛けて演出的思考の欠如、そして難しい台本。当然の帰結として「何がやりたかったのか理解できない」ということになりました。舞台をみれば一生懸命頑張ったことはよく伝わってきましたし、情熱も分かります。だからそれだけに惜しいという思いが見ている側としてはやはりどうしても強くなってしまいます。

台本を潤色(アレンジ)するとき、舞台装置を作るとき、そして何より劇を作るときに「演出的」思考を絶対に忘れちゃだめです。これは本当に大切なことです(参考、昨年度の県大会全体的な感想)。ちょっとそこに気を付けるだけで、もの凄く見違えるのではないかとそんな風に感じました。

審査員の講評

【担当】石村
  • 舞台装置。花や生け垣のオブジェがパラパラと置いてあって、花も目立って、生け垣も目立ってという感じでしたが、全体としてオブジェの変化が欲しかった(編注:均一ではなくある程度狙ってアンバランスにした方がいい)。
  • エレベーターガールの動きが面白かった。
  • 観客を選ぶ象徴的な劇で、いかに観客を伝えるかということに挑戦していたと思う。
  • 言葉が次々と続いていくのだけど、伝わりにくかった。
  • いろいろと考えさせられる劇で、よく作っていたと思う。
【補足】光瀬
  • エレベーター内の壁を表現するのに途中パントマイム――正確には無いものをあるように見せるイリュージョンマイム――を使っていたが、これは言葉がなくても伝えるという演劇とは異質のスタイル。であるのに、本物のタオルが存在するといった混乱がある。他にも、ああいう(リアリティのある普通の)服装の人はそういうこと(パントマイム)などはしない。
  • 他の表現スタイルを取り入れるとき、ここまでは演劇のライン、ここまではパントマイムのラインというそういうボーダーをハッキリさせることが演出でありセンスだと思うが、そういう配所が足りなかった。(※)

※補足:表現のスタイルによって「文法」というものが存在します。例えば、演劇においては、明かりの外(スポットの外など)は例え目に見えていても「見えないもの」という観客と上演者側の(暗黙の)約束事がありますが、このような約束事を「文法」といいます。例えばミステリ小説において頻繁に殺人事件が起きて主人公達が巻き込まれることは文法のひとつであって観る側も読む側も納得しているために誰も疑問に思いません。この種の文法は表現媒体によって無数に存在します。複数の文法を取り混ぜる際に「文法がごちゃ混ぜになる」という弊害が生まれ、この部分の調整・配慮しないと「この場合はどっちの文法(常識)を持ってくるの?」といった類の混乱が起こります。この文は、それが問題だといっています。