前橋南高校「狩野【kanou】」

作:原澤 毅一(顧問創作)
演出:星野ひかり
※最優秀賞(関東大会へ)、創作脚本賞

あらすじ・概要

東京の山の手にひっそりと暮らす姉妹の物語。お嬢様育ちで親の遺産で過ごす、姉のほぼ言いなりになっている妹。姉の恭子は屋敷を売り払って群馬に引っ越すと言い出すのだが……

感想

狩野って何かと思いましたが、叶姉妹を明らかにモチーフにした非常にバカバカしい台本です。原澤先生の台本は毎度よくわからなかったのですが、今回のでなんとなく楽しみ方がわかったというか本当にバカというか。今回、バカらしいことをすごく真面目そうに格好よさそうにそして舞台芸術風にも作られていますが、その本質は単なる悪ふざけ。下手に上演すれば、ただ呆れられるだけなのですが、すごいクオリティで上演するから成り立ってしまう。

幕が引かれて、椅子が2脚あるだけの非常に簡素な舞台です。椅子1つ1つにサスを当てる、もしくは2つ一緒にサスみたいな照明だけで進めていますが、横から照明をあてて顔が影にならないように配慮することは忘れていません。舞台装置はほぼ何もないのに部屋や屋敷の構造を感じさせる動きがこれまた素晴らしい。

声の演技をはじめ、人物の動きがとてもとても美しく、とても上品な上演となっています。そしていつも通り、スモークを使ったり、飾りサスを使って舞台芸術的なものも見せ、舞を見せ、脈略も何もない。ひどいもの(褒め言葉)です。ラストシーンは姉をリサイクルしてしまうという怖くかつ抽象的な終わり方でした。

全体的に

例年通りの前橋南でしたが、今年は完成度高かったように思います。もう圧倒的。文句なしの最優秀賞です。

新島学園高校「厄介な紙切れ ─バルカン・シンドローム─」

作:大嶋 昭彦(顧問創作)
※優秀賞(関東大会へ)

あらすじ・概要

放課後の教室、数名の生徒が居るその場所に明日のテスト問題が紛れ込んだ。返すべきか、返さざるべきか。テスト用紙をめぐって繰り広げられるコメディ。

感想

舞台奥側に教壇を置いて、その方向に5列、それぞれの列に机を3つずつ。教室の前半分ということでしょう。それにしては教室の構造が少し謎ではありましたが(出入り口どこ?)。

スタート時。教室で3グループが並列して起こる会話を、その他のグループごとにストップさせて1グループだけ時間軸を進行させて見せるのは面白いなと思いました。実力を見せつてくれるなとも感じましたけど、静止タイミングや微動だにしないあたりはさすがの新島。同時並列を、同時並列にして順序を整理して見せるのも1つの方法ですが、こういうやり方もあるんだなと思いました。

相変わらずの演技力で、声がよく通り、それでいて力みすぎず、それぞれの登場人物がきちんと立っていて、非常に安心して見ていられました。また台詞のタイミングもよく整理されていて、わかり易かった。先生が少し先生っぽくないのは、仕方のない面はありますが、でも新島の実力ならもう少し頑張れますよね?

全体的に

講評の指摘がほぼ台本だったということが象徴してると思うのですが、くだらない話なんだけど演劇としてはきちんとできている。でもくだらない話。

くだららない話=ダメということはもちろんないのですが、盛り上がらない作りだなとは感じました。何も起こらず、終わって何か残るものもなく。最後にもう1つ厄介な紙切れがあればいいという講評の指摘もあり、もっともっとくだらない方向に突き抜けていればまた印象が違ったのかなと思いました。話全体がくだらない割に、細部の構成が真面目なんですよね。

新島らしい完成度の高めの安心できる芝居ではありました。

桐生第一高校「十一夜」

作:秋野トンボ(顧問創作)
潤色:山吹 緑
演出:清水 拓道

あらすじ・概要

文化祭当日。ロミオとジュリエットの上演準備中の演劇部。そこに1人の転校生がやってきた。転校生と一緒に古い舞台の資料を整理していると、ある小道具が転がってしまう。それを拾った瞬間、転校生すみれと星名は心と体が入れ替わってしまった。これから本番の上演があるのにどうすれば!?

感想

幕開いて立派なセットが組まれていました。本当にロミオとジュリエットの上演で使うセットなのかなあと思わせるぐらい。高いパネルで城壁っぽいものが舞台左右に3枚。中央にレンガ風の高さ1mぐらいの段があり、その手前に3段のはしご階段(いつも桐一が使うもの)。上手に白いクロスがかけられたテーブルがあり、その上の果物が置かれています。いつもながらに舞台美術は見事です。

桐一久しぶりの現代劇で、大勢の人間がわーって動くあたりさすがの上演でした。大人数が結構ワイワイと動くのですが、校内放送含めややワイワイし過ぎで、どこを見せたいのかわからなくなる場面が序盤ありました。もう少し整理されてもいいのかも知れません。星名とすみれ、あと部長と高橋(すみれの彼氏)ぐらいが誰か分かればよい劇で、逆に言えばその他の端役の人物は意味があったのかなとも感じられました。最初から出してしまったので劇全体をわかりにくくしたようにも感じました。それと泰子先生がちょっと演技演技しすぎかな。先生っぽさがあまりなかった。

全体的に演技が甘い部分が目についた気がします。コメディの間としてはやや中途半端で、かといってリアルにもなってない。動作もやりきってない部分が多い。しようとして止まる、歩こうとして振り返る。もう次が予測された動きになってしまったところも多々見受けられました。

物語のキーとなる星名とすみれは非常に気を使って演じられており、入れ替わったことがちゃんと分かるものでした。良かったと思います。入れ替わりを照明と音で示すのもわかりやすい演出であったと思います。でも、この2人の変化に深く突っ込まない他の部員たちはご都合主義に感じられました。いくら何でもおかしいとおもうでしょう。

細かいところですが、バルコニーのシーンで星名がすみれに台詞を教えているのですが、あそこまであからさまに客席にはっきり聞こえる声の大きさで台詞を教える必要はありましたか。小声でなるべくほかの部員に聞こえないように教えますよね。客席に聞こえる必要はないですよね。それより前のすみれのおじさんとのシーンでは、うなずくことで意思を伝えていてこれがうまくできてたのにもったいない。

全体的に

台本がご都合主義すぎるかなと感じます。「ロミオとジュリエットぐらい演劇部なら知ってるでしょう!!」……本当にそうなのでしょうか。上にも述べたけど、入れ替わった二人に突っ込まない気づかないなんてことありえるでしょうか。逆に言えば、バレそうでバレないという遊びをもっと取り入れることはできたのではないでしょうか。すみれと星名は入れ替わったことでそれぞれ学んだってオチなのですが、上演中に何か学んで進歩してましたか。台本の欠陥だと感じます。もっと他のエピソードを整理して「星名とすみれ」にスポットすることはできたのではないでしょうか。今のままでは、このままだと終われないので無理やり作ったオチという感じが拭えません。あと説明台詞が多いのが気になった。それ本当に観客に説明しないと物語成立しないこと?

色々批判的に述べてはしまいましたが、大人数がわいわいとやる演劇は見ていても楽しく観ることができました。講評で指摘があったように、少し内容を整理すれば化けるかと思います。

伊勢崎清明高校「暗鬼」

作:小野里 康則(顧問創作)
演出:新井 笙子・今井 楓子
※優秀賞(関東大会へ)

あらすじ・概要

高校の八卦掌(気功みたいの)同好会の4人。かかってきた電話と共に急に様子が変わった敦子(アツコ)。それが気になる幼なじみの美紀。それから一週間敦子は学校に来なかった。親の看病で休んでたという敦子と、先日地元のショッピングモールで金髪姿の敦子を観たという同好会の詩織と瞳。そこで見た敦子は本人だったのか。同じ頃、金髪の敦子のものとおぼしきブログが見つかり、そこには夜遊び・男遊びをするブログ主の姿や美紀の中傷が……。

台本の感想

顧問創作脚本。……正直、ちょっと微妙。

カウンセラーの先生がステレオタイプすぎるように感じます。まず台詞がうそ臭い。「~だわ」「~のね」「~わね」。こんな先生本当に居るんでしょうか。スクールカウンセラーってことは少なくとも心理学関連の勉強はしているはずで、それを踏まえると生徒とのコミュニケーションを取り方、立ち位置も他人行儀すぎて不自然。信頼関係を作り、生徒の味方そして仲間になるのが普通じゃないのかと思います。「彼女」とか「あなた」とか他人行儀に言わないで名前で呼びませんか。ブログを見せて「それが敦子である」という方向から提示することもあり得ないし、生徒が言う意見をそう易々と否定するでしょうか。(観ていると否定してばかりです)

最大の問題と感じるのが、後半のカウンセラーの先生が他の先生に「多重人格」について説明してるらしきシーン。あまりにも説明的でこれ本当に必要だったのか。よくある「お勉強しました」状態。後半のクライマックスシーンのテンポと迫力を多大に汚しつつ、「多重人格」についての知識を観客にだけ与えている。舞台上の敦子以外3人よりも詳しい知識を観客にのみ与えることに物語上何の意味があるのか。

つまり、カウンセラーの先生である必要はなかったしそれが大きな問題だと感じました。例えば、担任や生徒指導の先生が事実の究明をしているという立ち位置だったらどうだったでしょうか。先生はあくまで事実を究明しようとしても不思議ではないし、心理学的な詳しい説明を登場人物以上に与えられることもなく、そこにある敦子と(別人格のアスカ)いう存在や物語上の出来事を通して「観客と登場人物」は同時に同じだけ理解する。どこに問題があるのでしょうか。むしろ現状より好ましくないでしょうか。おまけにこうやって削れた時間で、敦子の闇が垣間見えるエピソードを作ることもできる。

「ネットパトロール」についての説明台詞についても見られますが、やや過剰に説明しがちな傾向が作者の方にはあるように感じました。話はすごく良いのですけどね。

感想

黒幕もない、装置もない。広い舞台。八卦掌のシーンからスタート。講評でも指摘されていましたが、この八卦が美しくない。端的にヘタ。「同好会だから下手なんだ」といわれればたしかにそうなのですが、舞台演出としてはやはりある程度上手いほうが良いでしょう。その他の演技にも通じるのですが、動くことに意識が行きすぎて止まる演技ができてないため美しくない。止まるべきときは綺麗に静止してください。ダラーって動くから美しくなくなる。ラストのアスカ(敦子)が去るシーンもです。

4人の人物たちの性格付けや関係性がきちんと配慮され演じられていました。緊張があったのかも知れませんが、少し「間」(反応)が早い。相手の台詞を頭で理解し、そこから言いたいことを組み立てて反応するという様子が感じられません。前の台詞が終わったから次の台詞を言ってると感じられたシーンが多々ありました(特に前半~中盤。後半は良かった)。台詞の強弱はきちんと使い分けられていましたので、余計に惜しく感じられました。あとは少し力を抜いて演技できるとキンキンしなくてよかったでしょう。講評でも指摘されていましたが、身振り手振りも頑張っているんだけどどうにも不自然に感じられました。

もう1つ気になったのが、中盤でカウンセラーの先生と生徒たちが共に客席を向きながら対話するシーン。先生が舞台奥で生徒が舞台手前である意味は何かあったのでしょうか。また、先生と生徒という互いの互いに対する演技のチャンスを殺しているのはどうなのでしょうか。それと、ここでの間もなかったですね。

全体的に

終わってみれば敦子と美紀の物語なのですが、もう少しここに演出上の焦点を当てることはできなかったのでしょうか。終わってみるまで、同好会の4人ないしは「敦子とその他3人」という構図に見えていました。「暗鬼」のタイトルからして敦子の抱えている「闇」みたいなものが物語上とても重要なポイントではあるのですが、結局敦子「闇」が垣間見える部分って何かありましたか? 終盤になるまで敦子の背景が感じられないこと、そしてもう1つ。

敦子に対して揺れている美紀の姿が見えなかった。美紀は敦子の味方でありました。しかし詩織と瞳が帰った後、出てきた敦子から「本当の事を……」と言われたシーンで一時的に怒りました。さっきまで断固として敦子を信じていた美紀はなぜ怒ったのでしょう。真実を言えなかった事情さえも察して信じるのではありませんか。これに説得力をもたせるためには、詩織と瞳の言葉に揺らぎながらも信じようとする美紀が演じられていなければなりませんし、そうでなければこの物語は成り立たないのではないでしょうか。

同様に、ブログを作ってまで敦子を貶めようとした詩織(?)はなぜそこまでしたのでしょう。おそらく、詩織は美紀に対して好意を持っていて、美紀が何よりも敦子を大事にすることに嫉妬していたのですよね。その好意や嫉妬が(台詞以外の)演技や態度に出ていたのか、ここもやはり疑問が残ります。例えば、好意を持つ相手には物理的に近づこうとするし、嫉妬する相手には節々で不満そうになりますよね。現状でもかなり頑張って人物を演じているのですが、もっともっと深く掘り下げて演じてほしいなと感じました。

新島学園高校「たばこ屋ラプソディー」

作:大嶋昭彦(顧問創作)

あらすじ・概要

学校でタバコが見つかったため謹慎になってしまったゆき子はお婆さんの家に居た。昔タバコ屋だったお婆さんの家。ゆき子はどうしてタバコを持っていたのか、謹慎から復帰することはできるのだろうか。

感想

いつものハートフルコメディ。幕があがりお婆さん3人が花札をしているシーンから始まります。畳の和室が左右2つに分かれていて(ふすまなどはなく続いている)、下手の部屋に仏壇、中央に丸テーブルがあってそれを囲むようにお婆さん3人。上手には四角いちゃぶ台の置かれた居間。居間の奥に閉じられたふすま、その奥に廊下があり、廊下の奥側に階段、廊下の上手に玄関という構造を想像させます。

お婆さんは死んでいてゆき子だけに見える設定だったのかな。後半になってお婆さんが死んでいることが明かされますが、この辺の実在しないものを見せてしまう構成や、人の出入りをうまく使って話を進めたり、見事な部屋の装置を作ったり、時計を置いてそれを動かしたりといつもの新島らしい隙の無い舞台作り。(ところでいつも気になるのですが、あの時計はどうやって変えてるんだろう。あらかじめ設定した同じ時計を置き換えてるのか、暗転ごとに毎回調整してるのかな)

そして見事なのが、高校生・大人(親や先生)・お婆さんの演じ分け。風貌はもちろん、テンポの違い、動きの違いを非常によく演じ分けています。お婆さんについては講評でステレオタイプじゃない?との指摘もありましたが、記号だとしてもお婆さんに見えることはやはりすごい。他校が年配者演じると大体失敗するんですよね……。

学校の先生が家に訪ねてくるところで、母親が娘に対する態度と先生に対する態度(よそ行きの顔)を使い分けたり表情で指図してみたり、母親は背筋が伸びてるのに娘はだるそうに猫背にしてたり、先生方はきちんとしてたり非常に上手い。年齢による演じ分け含め普段から余程エチュード等で練習しているのでしょうか。いつもながら唸ります。

全体的に

いつもどおりの完成度の高さにただただ唸る所ではありますが、年々他校のレベルも上がってきた今、いまいち「ぱっとしない」印象は拭えません。こう言っては失礼なのはわかっていますが、完成度が高いだけなんですよね……。実際2年前に予想したとおりの状況になってる(「だんだん他校の実力もあがっているので他校が骨のある本と演出で勝負してきたときには分からなくなりますね」の部分)わけで……。基礎演技力でも新島とそれほど変わらない高校だってあります。

この物語で重要だったのは「タバコ」というアイテムなのですが、中盤それが完全に忘れられている。元タバコ屋という設定ですが、舞台空間にはタバコ屋の影形もない。タバコとそれにつながるお婆さんに観客の意識を持って行かないとこの物語は成り立たないのではないですか? タバコそのものではなく「タバコを持ってたこと」や「ゆき子の謹慎」に焦点が行っている気がしませんか。

例えば舞台装置がタバコ屋になっていて、(死んで店じまいしたために)片付け中のタバコが置かれていて、その手間にお婆さんがいつも座っていた椅子があり、そこに視線で演技するだけでも全然違ったのではないでしょうか。タバコの他に花札という2つのアイテム分散させる必要もないのでお婆さんが3人も要らなくなり、色々変えることにはなりそうですが。もしかすると部員10人全員に役を当てるというのがまず最初にあったのでしょうか。だとすれば、その最初の制約を克服できなかったのではないかと思います。