館林高校「1億分の1」

作:柳本 博(既成)

あらすじ・概要

文化祭のステージ発表も近づくある日の剣道部。弱小剣道部で唯一インターハイ出場を決めた伊集院が他の部員に暴力をふるったと顧問に訴える。やがて伊集院を裁く裁判もどきになっていくのだが、真相はどこにあるのか・・・。

「高校演劇Selection 2000上」収録作品。

感想

道着を着た剣道部員たちがぞろぞろと立ち、上手にホワイトボード、その左となりにトロフィーが置かれた台、さらに左に竹刀がささった傘ててみたいなものがあり、その左に椅子。更に左に剣道の防具がバラバラとおいてあります。ホワイトボードのさらに上手にも2つの椅子。剣道場って設定なのかなあ。

設定上、伊集院が怖くて嫌なキャラなんですが、嫌はともかく怖くないんです。上原主将のほうがドシっと構えて強そうに見える。この時点でちょっとなあ……。伊集院って暴力を振るうような人物なんですよね。その割にいい人に見えてしまう。嫌味っぽさも少ないし、強そうでもない。多分演じてる生徒はいい生徒なんだろうなあ……。性根が腐ったような悪さ、社会とかに対する不満みたいなものも何も見えない。先生の前では顕著に態度を変えるとか何かできなかったのでしょうか。これは別に伊集院役だけに限ったことではなく、他の部員も恐れている感じがしません。それは台詞ではなく、人物の距離の取り方、態度、ふれあい方に見えないのです。

高校演劇では少数派のせっかくの男子だらけの演劇部なのに一人芝居が多い。一緒に動いたり、相手に詰め寄ったり、近づいたり離れたり、殴るフリしたり、竹刀でふざけてみたりという、男ならではの迫力を生かした体と体の演技が非常に少ない。例えば、野々村を呼び出すために「お前、携帯番号知ってるだろう」って言うシーン。手とかで相手を指したりしません? 「お前」って言いながら肩叩いたって不思議じゃない。動作の演技もいい加減で、肩もみ再現シーンの肩もみがいい加減。殴るシーンで本当に殴るわけには行かないのは分かりますが、肩もみシーンで本当に肩を揉んではいけない理由は何かあるのですか? 台詞の演技はよく練習されていて、間やメリハリも配慮されていたのですが、そこに意識が行きすぎて体の演技が随分とおざなりになってしまったと感じます。

もう1つ、台本の欠点でもありますが先生がよく分からない。こんな先生居ないだろう。台本に書かれているだろう台詞自体が下手くそです。もうこれはギャグキャラにするぐらいしか思いつかないのですが、その割に演技が真面目なんですよね。台詞直しても良かったんじゃないでしょうか。

全体的に

伊集院が悪キャラになりきれておらず、恐れてる様子も見られなかったことが致命傷でしょう。主将を初め台詞の強弱の付け方や、全体的な間の使い方は比較的うまかっただけに残念です。あと、テーマ的に「1億分の1」の人間であるなら、全体の話筋と主題が関係がない。台本の欠陥なんですが、演出で配慮されフォローされているわけでもなかった。

しかし、ラストの文化祭シーンでの剣道部の上演は非常に格好良く、男子校の良さが存分に発揮されていたと思います。綺麗だった。でもこれ話筋と関係ないんですよね(苦笑)

高崎商科大学附属高校「白犬伝 ある成田物語」

作:タカハシナオコ(既成)
演出:緒方香帆里

あらすじ・概要

1970年。ある家庭に拾われた白犬ツル。翌年、家からいなくなったソノコを追うため、ツルは成田へ向かった。成田で出会ったソノコは成田闘争をしていて……。

「高校演劇Selection 2004下」収録作品。

感想

冒頭、犬の鳴き声にあわせて演技することで「この人物が犬だと示す」のはうまかったと思います。「私は犬である」って台詞要らない。その後、犬がソノコに拾われ、家庭でのやりとりが白幕(白いベール)の奥で行われるのですが、これは必要だったのでしょうか。講評では評価されていましたが、単純に見づらくてしょうがなかった気がします。幻想やベール向こう側、ステレオタイプで形骸化された(ソノコの)両親などの演出意図があったとしても、演劇リアリティを多大に犠牲してまで成功してたとは思えない。別のやり方があったんじゃないでしょうか。

さて、ソノコの姉が亡くなり、ソノコは姉とよく似た人を追い成田闘争へと身をまかせ、犬のツルは人間に化けさせてもらいそれを追いかける。裏の白幕が避け、舞台は成田の小屋。裏面の黒幕の切れ間に吊るした板があって、そこに「農地死守」「この必死の農民魂を見よ」などの断幕が貼られています。その割に、照明は舞台全域に当てられていていました。小屋で闘争するという舞台設定を考えると照明を中央のみに絞ることはできたのではないでしょうか。どちらかというと小さい小屋(演劇小屋)向きの台本ですし、そうであるべきだったように感じます。

講評で指摘のあったとおり、裏面がなぜパネルでなく吊しなのかは言われてみれば疑問が残るところです。ラストシーンを考慮したとしてもパネルにして左右に開く手もありましたよね? ラストシーンの裏壁が釣り上がって逆境にジュラルミンの警察隊が浮かび上がる姿はたしかに見事だったので、それをより活かす意味でも再検討してほしいかも。

力を抜いて非常によく演じられていて、人物もきちんと演じ分けられていました。

全体的に

時代背景ものでありながら、ありがちな「時代背景への深入り」をすることもなく、あくまでツルとソノコの物語に収まっていた点は高く評価したいです。これが守られていた時代背景ものは今まで県大会ではなかったと記憶してます。こういう台本って時代背景に囚われ過ぎるという罠があるので難しいのです。ラストシーンも非常に良くシロやソノコの胸を打たれる部分もありました。

その一方で、それでもやはり中盤成田闘争に傾き過ぎたなという部分があります。中盤はもっとシロとソノコ、ソノコの姉によく似たユカリの関係に注意して演じることはできたのではないでしょうか。人物の性格付けはできてた反面、それぞれがそれぞれに対してどう思い、何を感じているのか充分に演じられていたとは言えません。また成田闘争を背景とし「命かけてない人がこの場にいちゃいけない」という割には、闘争に参加している「スズコ」や「ヤスコ」そして「ユカリ」にその気迫や無念さ、もしくはやりたくないけど巻き込まれちゃったなって部分が見えてこなかった。

特にツルはこの複雑な状況における気持ちがもっともっと見えて欲しかった。ツルの、突然出ていったソノコへの想いはどんなものだったんだろうか。ソノコを見つけた時に何を感じたのだろうか。好意? 居場所を持っていることへの羨望? もしくは自分を置いていったことへの怒り? 連れ戻すに連れ戻せない気持ちはどんなものだったんだろうか。元気なギャグキャラに成り下がってたようにも感じられます。そしてソノコは、勢いで来てしまったこの場所に何を感じていたのか、ユカリへはどう想っていたのか。そういうものがもっと見えて欲しかったと思います。

そしてラストシーンの映像投影はやっぱり要らないよね。これはあくまでツルとソノコの物語なんだから。

桐生第一高校「赤いろうそくと人魚」

原作:小川未明
脚色:壌 晴彦
演出:桑原 真未

あらすじ・概要

人魚の子供をさずかったろうそく売りの老夫婦。可愛い娘にそだった人魚がろうそくに絵を描き、それが評判となったのだけども、ある日その人魚を南蛮の人間に売り渡してしまい……。

感想

幕が開いて木組で舞台全体に組まれた足場や段差。奥をぽっかりと空け海、そして波を表現。山や月夜も表して桐一らしいきれいな装置作り。本作は地区公演で以前みているのですが(もちろん当時の人たちは現桐一には居ない)良くも悪くも劇団桐一そのままでした。見た感想も去年と似てるかもしれない

舞台美術は本当によく凝ってるんだけど、それだけって印象が……。突っ込みどころがありすぎるので箇条書きで。

  • 踊る必然性がない。よしんばミュージカルしたいのだとしても、踊りも未熟でミュージカルもどきにすらなっていない。
  • ミュージカル的演出のところで、スピーカーから歌を流した意味がわからない。録音なのにさして上手くない。ミュージカルしたいなら舞台上で存分に歌ってください。せめてそれぐらいしてください。
  • ろうそくが評判になるシーンで村人が押し寄せるシーンをミュージカル風にみせていましたが、その後左右からの照明で止まるシーン。語り部が語り始めるのに、語り部に光が当たっていない。しかも村人も和服、語り部も和服で混ざって語り部がどこに居るかすら分からない。語り部の服装に変化をつけてもいいし、そうでなくとも(スタッフ多いのだから)随時ピンスポという手もあったのでは? 語り部が舞台上を移動する意味がそもそもあったの? 舞台脇でよかったんじゃないの?
  • 南蛮の人買いと老夫婦が会話するシーンを天井からのスポットを上手下手に1つずつ置き見せていたけど、両方とも背中にライトがあたって観客に向いた体前面がすべて影になってるのはいかがなものか。こんなときのための前ライトじゃないの?
  • 黒子が黒子として登場するときに、目の部分を白いボール紙で隠すのは意味がわからない。黒子が目立ってどうする。黒子なら黒子らしく振る舞う。他のシーンでその姿だからと手抜きしない。
  • おじいさんとおばあさんが元気すぎる。特におばあさんは背筋がピンと伸びて、しっかりとした足取りでテンポ良く歩くため全くおばあさんに見えない
  • 人魚を拾って、育って15年ぐらい経っただろうと想像されてるのに、老夫婦が少しも歳を取った様子がない。もし1年ぐらいで育ったという設定なら、そういう表現が必要。
  • 人魚の娘を売ってくれと言われたとき、老夫婦が心変わりし過ぎ。そこを舞台上で表現しないから見てる側は相当な違和感を受ける。観客をそこをみたいのだから。

桐生第一の演劇はいつもそうで、表記はあるのに演出不在。ちなみに今回はおばあさん役が演出のようです。

全体的に

光の処理やミュージカル的演出とかやりたいとこは分からなくはないですが、それが観客まで届かないのでこういう感想になってしまいました。かなりの苦言になってしまいましたが、近くの席にいた高校生の方がよっぽど辛辣なことを言ってましたし、嘘で褒めても意味がないので偽ざる感想として書きました。

でも、比較論に過ぎませんが去年よりはよかったと思います。45分ですが一応最後まで見られた。去年は感じられなかった観客に伝える努力は感じられた(実際に伝わったかどうかはともかく)。去年よりは観客に向き合ったのかもしれない。例年よりは楽しんで演じてたようにも感じられし、語り部は語り部としてちゃんと舞台上に存在していた(もう少し工夫できたとは思うけども)。さらに以前からの比較ならば、台詞はきちんと聞き取れたし、話の流れもきちんと理解出来た。それはたしかに重要な進歩だと思います。

いつも思うのですが、小難しいことしないで素直に現代劇やったらどうなんでしょう。現状だと語り部を使うことで重要なシーンから逃げているように感じます。そこをやらないから舞台を作る上でもっとも大切な演出的や演技の掛け合いがいつまで経っても成長しないし、何年経っても同じところをぐるぐる回っているように感じてしまうのかなあと、個人的な意見を申しておきます。頑張ってるのはよく分かるのですけどね……。

桐生南高校「76.9 闘争本部」

宗田理「ぼくらの七日間戦争」より
脚色:伊藤藍(顧問)・桐南演劇部

あらすじ・概要

ぼくらの七日間戦争をモチーフに、学生闘争をベースとした生徒たちの教師や社会への反抗としての闘争の話。ある日、メールで集められた(集まった)5人の生徒達は、川原の廃工場で闘争を決意する。

台本の感想

ぼくらの七日間戦争は映画しか知りませんが、七日間戦争(映画)の面白いところは、学生闘争をモチーフにしながら「僕たちの学校生活」という日常に矮小化して、それでいて「社会である教師達をやっつける」ドタバタにあると思うのです。(映画は)勧善懲悪とはいかないまでも、それに近い作りの作品だと記憶しています。

それに比べると「学生闘争」に随分と偏向した作りになっていて、それでいて学生闘争を掘り下げているわけでもない。かと思うと、物語後半で登場人物達が急に独白で、学校や社会への不満を語り出すという理解に苦しむ作りです(独白の問題についてはこちらを参照)。

ラストシーンから推察される物語の重要要素である「生徒たちの学校への反抗心」「大人との対抗」が全く描き出されておらず、それが災いして生徒たちが何のために廃工場に集まったのかも、どうしてそこに留まるのかも全く分からない。3日間の楽しい想い出も成長も何も描かれていない。そもそも人物像が非常にステレオタイプであり(全員だけど特に加瀬)、個々の人物が立っていない。個々の人物が何を考えているか分からない。伝わってこない。

そして数々の疑問。「あの程度のメールでどうしてみんな集まるの?」「この平成の時代に、闘争とか重たいものにそんな気軽に参加しちゃうの?」「電波ジャックがそんなに簡単にできちゃうの?」「河原の廃工場に簡単に入れるの?」「チャーンメールや公式サイトみたいなすぐ足が付く方法を使っててどうしてすぐに見つからないの?」「ラスト付近でなんで今更退学とか気にするの?」「警察いるのにどうして校長が突入の合図をするの?」等々。1つ1つはちょっとしたことでも、積み重なると完全なご都合主義となり、話のリアリティを欠如させる結果になってます。

そもそもなんで「闘争」に機軸を置いたのかがよく分かりません。もっとライトに矮小化されたセカイ系(ぼくとぼくのまわりがセカイの全てだという形の物語形式。近年流行)で闘争すればよかったんじゃないですか?

顧問の先生には申しわけないけども、台本に重大な欠陥があると言わざる得ません。七日間戦争の下敷きに面白いシーンをつまみ食いして構成したい気持ちは分かりますが、面白いシーンはその他の面白くないと思っているシーンがあるから面白く感じられるだけなのですよ……。

感想

シナリオは別とすれば、完成度は高めだったと思います。廃工場には見えなくもないようなパネル(ちゃんと高さ8尺程度)に窓や鉄の扉。扉のバリケードが安っぽかったり、ゴミ箱やロッカーが置かれている意図が理解しかねたりはしますが、それなりの舞台装置になっていました。

ギャクに絡んだかけあいの間や止めはよく出来ていて笑わせてもらいました。それにしては演じずらい人物像だったのかもしれないけど、そこに役者の解釈や想像がもっと入っていれば台本をカバーできたようにも感じられます。

ただ一部の台詞(岡野とか)が聞き取りにくかったのは問題だったかなあ。あと重要な役割をになっているまことが比較的早口なので何を言っているかよく分からない。ゆっくり強く発声する選択肢もあったのでは?

とてもがんばって演じられていましたが、それにしては台本が……とそれに尽きると思います。台本をすべて書き直すぐらいの心構えで脚色してればまた違ったかもね。

高崎商科大学附属高校「見送る夏」

作:越智 優

あらすじ・概要

夏休みの宿題をするため早枝子の家に集まった友人3人。そして、早枝子の家に居候している従姉妹の茉莉。わいわいがやがや、遅々として進まない宿題と暑い夏、そして茉莉はなぜ居候しているのか。そこへ茉莉の姉がやってきて……。

感想

舞台中央に畳が置かれた6畳程度の空間。丸ちゃぶ代と木製の棚とクラーラーとテレビ。なぜ部屋部分以外の照明を思い切り明るくしていたのがもったいないと思いました。照明を中央部だけに限ればそれだけでグッと部屋っぽくなったのかもしれません。夏っぽさとしては全体が明るいのはアリなのですが、雨のときに(明るさの)差がついたらよかったなあ。物語の大切な空間としての「部屋」がないがしろにされた印象があります。

友人達の一部が声が聞き取りにくかったのですが、4人+茉莉のワイワイガヤガヤとした年代相応の元気さがよく出ていたと思います。服装のかぶりにも配慮され、叫びから止めに流れるテンポの取り方も考えられていました。途中携帯は実際に鳴らしてたのかな? あとまんじゅうを実際に食べていたところなど必要なリアルの追求は評価したい。

しかし、演者には申しわけないですが、塔子(茉莉の姉)に振れないわけにはいきません。ものすごく頑張って演じているのはよく分かるのですが、残念ながら一人浮いていました。茉莉たち子供に対する唯一の大人の役割なので非常に重要で、他の人物を演じることに比べても難しいのですが(だから他の人より下手ってわけではないのですよ)、台詞のトーンで大人っぽさを意識しすぎたために真に迫って来なかった。重みがでてなかった。

台詞を速く言わないよう注意して演じられていたんだけども、それでもやや速くだったことと、1行の台詞の中での強弱(と速さの変化)がついてなかったこと、リアクションができてなかったこと、相手の台詞を受けての発声でなく順番で台詞を言っていたことが災いして「台詞を読んでいる印象」が強くなってしまったことが原因に感じます。1行の台詞の中にも気持ちの変化や思考の変化が入っているので、そこがもう少し出せたらなあと惜しく感じました。

じゃあ他の4人ないし5人は完璧だったかというとそうでもなくて、にぎやかなリアルが追求されていてよく演じられていた反面で人物の演じ分け(性格付け)まではみえてこなかった。茉莉はシナリオの立場として違うものの、4人は仲良しの4人であって1人1人までは区別ができなかった。台詞の裏にある関係性まで出てきたらもっとよかった。細かいところでは、笑いや面白さを見せるやりとりはもうちょっとオーバーな演技でよかったと思います。

全体的に

劇全体として夏の1コマというシナリオですが「演出意図はなんですか?」と聞かれて、たぶん答えられないんじゃないでしょうか。

夏をテーマに茉莉を含め色々なことがごちゃごちゃと入った台本なので、これといって軸の通った筋立てはされていません。だからこそ、何を見せるかという意識を明確にもって演じないと「なんだったんだ?」という印象が強く残ってしまい薄っぺらく感じてしまいます。儚さ? 哀愁? 過ぎ去るもの? 何かあったのかなあ。

よく努力され、とても頑張って演じられていただけに、それがもったいないと感じました。