清泉女学院高校「ヘレン・ケラーをめぐって」

脚本:ウィリアム・ギブソン
潤色:演劇部
演出:演劇部

あらすじと概要

盲目で耳の聞こえない少女ヘレンケラーとその教育係サリバン先生の物語。

主観的感想

有名な話みたいですが、自分はタイトルしか知りませんでした。大胆に脚色しているようです。目が見えなくて、耳が聞こえないヘレンは言葉も覚えられず到底人間らしいことはてきないわけで、それを甘やかす親となんとかしようとするサリバン先生(女性)という構図です。

何と言っても主役、ヘレン役。必死に手を動かし物を探っている演技をしていました。はい演技でした。残念ながら、目が見えた動きなんですよね……見ていて参ってしまいました。手を動かしてるのが、目が見えないフリとして手を動かしているだけなんです。目が見えない人は手で位置関係を把握しながらものを探るんです。さぐるぐらい動物だってしますよ。あんな闇雲に動かしたりしません。一度でも目隠しをして動いてみれば、すぐに間違えに気づけたはずですが、どうしてそれをしなかったのか不思議でなりません。

ヘレンは言葉が喋れないので、終始うめき声を発しています。このうめき声に感情がまるでこもってません。ヘレンの動作全体についても言えます。犬の吠える音だって感情こもってますよ。生まれてすぐの赤ん坊だってそうです。いくら人間らしい発育ができなかったとはいえ、それぐらいのことはできるのです。むしろこのお話はそういう部分を丹念に描くことが最も重要なのです。感情のある動き、うめき声。人間らしい知能を備えてないということに捕らわれ、深く考えずに演じてしまったせいでしょう。

これは他の役にも言えることで、例えば教育係のサリバン先生役。ヘレンがダダをこねて全く言うことを聞かないとき、永遠と、そして根気強く正そうとするですが、終始無言。例え相手に聞こえなくたって、感情の高まりとして声が出るでしょう普通。例えば、熱中して本を読んでいるときに犬がしつこくじゃれあってきたら、思わず「うるさいなぁ~」と言うこともあるでしょう? ヘレンに対する動作とかにも感情がないんですよね。やさしさしさなのか、いい加減うんざりしたのか、そういうのもあるでしょう?

ミッション系の学校ということでおそらく「台本ありき」で、その題材に対して最大限を尽くしたということなのかもしれません。演技の懸命さは、切々と伝わってきましたし余程練習したのもよく分かります。その努力は大いに買いたいのですが、演劇である以上「演技」や「感情表現」、「演出」という意味で疑問を投げざる得ません。大切なのは感情なのです。演じるということは、役柄の感情を懸命に解釈し役と同化することなのです。台詞に捕らわれてはいけません。大半の台詞に意味はありません。その裏の心の動きに意味かあるのです。今後はぜひその点に気を付けてください。きっと今よりずっと良くなるはずです。

細かい点

  • アニーや母親が早口すぎます。精一杯演じすぎてます。肩の力を抜きましょう。ご婦人(貴婦人?)の「ゆったりとした上品さ」を出すように意識してみましょう。
  • 途中、明るいところで場転があり気になりました。
  • 井戸のシーンで、本物の水を使っていたのはびっくりしました。よく出来ていましたが、このシーンに本物の水はそれほど必要だったのでしょうか? 作品のテーマを、心の葛藤(パンフより)を描くのに本当に必要だったのでしょうか?
  • この井戸のシーンで家の中の照明が同時に点いているのが非常に気になりました。どっちを見せたかったのでしょうか? 見せて意味のないところの照明は消してください。
  • 照明を消して真っ暗になった状態でどんちょうをおろすので、終わったというタイミングが非常に分かりにくく感じました。

審査員の講評

【担当】勝島 譲吉 さん
  • ほとんどの人が見ている翻訳劇で、カッティングをして上演してたけど、大変だったと思う。
  • やっぱり色々と大変だったのもあり、パンフレットなどによると教育係のサリバン先生に焦点を当てたかったようだけど、どうしてもお客の目はヘレンに向いてしまう。
  • パネルを5枚立てた抽象的な装置だったが、一体(パネルは)何を意味しているんだろうと疑問を感じてしまった。
  • 芝居というのは「観客がどう感じるか」が大切で、それをするためには役者だけでは無理で、演出がきちんと見てあげないといけない。
  • 大変だったろうけどよく作ってあった。